時空を超えたタイムトンネル<パサージュ博物館>へようこそ!
この<パサージュ博物館>の最終回を飾るのに相応しいのは
ギャルリ・ヴェロ=ドダを於いて他にないだろう。
何故なら私のパサージュ巡りのきっかけとなった場所だから。
ヴェロ=ドダと共に始まりヴェロ=ドダと共に終わる。
いや19世紀の旅は過去と現在どんなに時空が入り組もうとも
円環として循環するもの故に終わりはないのかもしれないが…。
パサージュ博物館という名のタイムトラベルの一応ケジメとして
いったん現実へと戻ってくるための最後の旅となるだろう。
それではまずこちらから最後のタイムスリップをどうぞ
これまでに御紹介した2018年パサージュ巡りの旅は
実は旅の滞在も終盤に近付いたある一日の出来事である。
パッサージュ・グランセール、ジュフロワ、ヴェルドー、パノラマ、
そして前回のギャルリ・コルベール(2011年版)と巡ってきた訳だが、
ある馴染みのブロガーさんからパノラマの記事でこんなコメントを頂いた。
「カフェ・ステルヌでなぜコーヒー一杯でも飲んでいかなかったのか?」
今回の記事はそれに対する答えでもある。
パッサージュ・デ・パノラマを出て付近でお土産を買った時点ですでに午後🕔近かった。
まだまだ空は明るかったがあと1か所どうしても行くべき場所があった。
それが今回のギャルリ・ヴェロ=ドダなのだが…。
疲れた脚を引きずりながらも私は3、40分程かかって歩いて行った。
昼から何も飲んでいない為すでに喉はカラカラ。
でもずっと心に決めていたことがあったから。
リブログ記事のほうを先に読んで頂いたならきっと想像は付くはずだ。
ブロワ通り2番地の入り口から中へ
monochromeの市松模様のタイルが敷き詰められた直線80mの床。
後は目的の場所に向かって一心不乱に進むのみだ。
このトンネルを潜るのも今回で最後ー。
<通過儀礼>という言葉がふっと脳裏に浮かび上がり
見えない敷居を越えるために未知の領域へと大きく一歩を踏み出す。
その瞬間からすぐに安堵感の綿毛に身も心も包まれる。
―もう急ぐ必要もあるまい―
先客がいないことを遠くからでも確実に私の視野は捉えている。
ついにこの日がやってきたという思いに胸の高鳴りはもう爆発寸前だ。
一歩追うごとにそれは輪郭を露わにしていく。
ついに私はその目前で立ち止まった。
「御招きにあずかりまして、やっとこちらへ辿り着きました」
突き当りのジャン=ジャック・ルソー通りはもうすぐそこに見えている。
私を待っていたのはこのような風景。いや、これは2011年に訪れた時のものだ。
Restaurant Véro Dodat
(19 Galerie Véro-Dodat, 75001 Paris)
今回私を待ち受けていたのはこちらが正解
違いは一目瞭然、テーブルクロスの柄に注目あれ。
立ったまま入り口のメニューや看板などをしばし眺めていると
奥の薄暗がりの中から店主らしき中年男性が現れて席を勧めてくれた。
「ドリンク(boisson)だけでもかまいませんか?」と一応確かめてから
冷たい飲み物で何かおススメのものがあればと頼む。
ここまでくればもうおわかりだとは思うが
Restaurant Véro Dodatの席に座ることを私はずっと心に決めていたのだ。
2011年に訪れて以来、次回訪れた時は必ずと心の中で誓っていた。
それは誰でもない自分自身との<約束>だった。
今までのパサージュ巡りの集大成として
単なるフラヌール(遊歩者)の立場ではない場所に身を置いてみたかったのだと思う。
その為にはこの貴族の館を思わせる室内に
客人として招かれた雰囲気に浸ることがぜひとも必要だった
たとえ妄想とか自己満足と言われようとも。
店主おススメの冷たい飲み物はペーシェ(桃)のジュースだった。
赤いギンガムチェックのクロスにピッタリ合うのはいいとしても
頼んだ覚えがない?バニラアイスも登場したのには一瞬驚いたが
飲み物を注文する前にアイスクリームはあるかと尋ねた朧げな記憶がある。
たぶんそれを勘違いしたということにしておこう。
貴族の館に招かれた客人のもてなしにはアイスがやはり不可欠だ。
しかし何という贅沢さだろう。
PARISという都市へ世界中から多くの観光客が集まる中
夢のような心地よい空間を一人心行くまで満喫できる至福の時。
ごくまれに行き交う人々も影絵のようにただ静かに通り過ぎるだけ。
こちらの存在など気にかけることもなく、たぶんそれがこの街の流儀なのだろう。
『数の中に、波打つものの中に……居を構えることは、無限の喜びである。
……わが家の外にいながらどこでもわが家にいる気持ちになること、
世界を見つつ、世界の中心にいながら世界に対して身を隠していること…』
ヴァルター・ベンヤミン/(パサージュ論)より
だがもちろんそれだけではないだろう。
現在は行き交う人々を眺める観客の立場であろうとも
向うから見ればこちらはテーブルに付属のアクセサリーか
ショーウィンドウの陳列品の一つに過ぎないかもしれないのだ。
つまり誰でもパサージュの中に於いてはどちらの立場にも成りえるということになる。
そろそろこの辺でずっと棚上げにしてきた結論を出す時がやってきたようだ。
それはパサージュは屋外なのか室内なのかということ。
もう一度以下の3枚の写真をご覧頂きたい。
パサージュの通路に張り出したカフェのテーブル
ここを果たして屋外とするか、それとも室内とするかについて。
確かなのはどちらもパサージュの中であるのに変わりはないということだ。
しかし何といっても一番のネックとなるのは通路の問題である。
ちょっとややこしいが単にパサージュといえばフランス語の<通り抜け>を意味する。
この通り抜けのいわゆる通路をどう捉えるかによって結論も違ったものになる。
元はと言えばパサージュというものが造られ流行するようになったのには
パリの街路が中世以来の公道と公道を結ぶための<抜け道>が存在しないという
不便な構造のまま長年放置されてきたことが大きい。
店舗が導入されるようになったのは後付けである。
だから本来の目的からすればパサージュは<抜け道=屋外>であるべきところを
ただの抜け道なのにガラス屋根まで付け雨風から覆ったとなれば
やはり店舗の意味合いが大きく占めるので<室内>ということになろう。
その場合遊歩者の歩く部分は何と呼ぶべきか実はずっと考えあぐねていたのだった。
『パサージュは外側のない家か廊下である―夢のように』
―ヴァルター・ベンヤミン―
店主おススメの桃のジュースより予期せぬオマケのバニラアイスが
予想外に美味だったことがレストランでの良き思い出となった。
もちろんオマケでもそれなりの勘定はキチンと支払ったのは言うまでもない。
「バニラアイスがとってもおいしかった!」と一言だけ言葉を添えて。
さあ、お茶の時間も終わったことだし貴族の館からも退散するとしよう。
すぐそこに口を開けているあのトンネルの出口の方へ。
まだ外は明るいはずだ。
後ろは決してもう、振り返らない。
そう言い聞かせて―。
『集団の夢の家のもっとも際立った形のものが博物館である』
※集団の夢の家=パサージュ、冬用温室庭園、パノラマ、工場、蝋人形館、カジノ、駅などのこと
『博物館の内部は、私の分析では、巨大なものになってしまった室内ということになる』
―ヴァルター・ベンヤミン―
私の頭の中が巨大になってしまった室内であるかどうかは別として
最後にベンヤミンの文章におこがましくも力づけられたところで
私もこの博物館を閉じることにしよう。
このシリーズを応援して頂いた皆様に感謝いたします。
よろしくお願いします