心・意・身を一つにし、究極を求めて極め続ける武術
これは、私が長年追い求めてきた究極の武術です。
武術を続けていると、技の形だけでは説明できないものに出会います。
同じ動作でも、心の状態、意識の向け方、身体の使い方によって、力の伝わり方は変わる。
この三つが一つになったとき、初めて武術としての動きが生まれます。
紅掌派心意拳には、心・意・勁・身を一つにする教えがあります。
先人の教えを自らの修練によって深め、問い続け、さらに高い境地を求めていく。
その歩みこそが、紅掌派心意拳の道です。
心・意・勁・身を一つにする
紅掌派心意拳には、代々大切にされてきた教えがあります。
心をもって意を起こし、
意によって勁を導き、
身体に勁を通す。
「心」は精神や意識、心の働き。
「意」は、そこから生まれる明確な意志や方向性。
「勁」は、単なる筋力ではなく、身体のつながりを通して生み出し、伝える力です。
心が動けば意が生まれ、意が定まれば身体の動きが変わる。
そして、身体を通った勁が拳として現れる。
心・意・勁・身。
これらを一つの流れとして修練し、より正確に、より強く、より自然にしていく。
終わりを定めず、常にその先を求める。
それが紅掌派心意拳の道であり、私にとって大きな喜びです。
形を覚えるだけでは、武術にはならない
型を覚えることは大切です。
しかし、なぜその姿勢なのか、どこから力を出し、どこへ伝えるのかを理解しなければ、武術にはなりません。
最初は「形」を学び、次に形の中にある「意」を理解する。
さらに、意によって勁を導き、身体全体を一つにして動く。
そして最後には、意識した動きさえも自然に現れるようにする。
形から入り、意を理解し、勁を養い、身体で表現する。
そこからさらに、形・意・勁・身を一つにし、限界を決めずに深め続ける。
昨日できなかったことが今日できるようになり、昨日見えなかったものが今日見えるようになる。
その変化を積み重ねることが、たまらなく楽しい。
紅掌派心意拳とは
「心意拳」は中国武術の歴史の中で古くから使われてきた名称で、現在も心意拳・心意六合拳などの伝統があります。また、中国国家級非物質文化遺産の資料でも、心意拳は独立した伝統として紹介されています。
そのため、紅掌派心意拳は、既存の心意拳や形意拳そのものを名乗るものではありません。
先人から受け継いだ教えと、長年の修練によって培ってきた、
心・意・勁・身を一つにする
という理念を、紅掌派の流れの中で守り、伝え、さらに深めていくものです。
受け継ぐことは、過去にとどまることではありません。
先人の教えを土台に、自らの身体と心で確かめ、まだ見ぬ境地を求めて修練を続ける。
紅掌派心意拳は、完成して終わる武術ではありません。
修練する者がいる限り、さらに深く、さらに高く、極め続けていく武術です。
武術家として伝えたいもの
武術を教えることは、技だけを教えることではありません。
基本を大切にし、失敗しても繰り返し、自分の弱さから逃げないこと。
師から受け継いだ教えを正しく学び、身体で確かめ、昨日の自分を越えるために修練を続けること。
武術は、一代で完成するものではありません。
先人から受け取ったものを自らの修練で深め、次の世代へ渡していく。その繰り返しによって、武術の命脈は保たれます。
技だけでなく、その奥にある考え方まで伝えていく。
心を磨き、意を定め、勁を養い、身体を鍛える。
そして、心・意・身を一つにする。
武術は、強くなるためだけのものではありません。
自分自身を磨き、弱さを越え、受け継いだものを次の世代へ伝えていく道です。
どれほど修練しても、さらに深い境地がある。
だからこそ、武術家は歩みを止めない。
究極を求め、極め続け、そしてその過程を楽しむ。
できなかったことができるようになる喜び。
見えなかったものが見えるようになる喜び。
心と身体が少しずつ変わっていく喜び。
それこそが、私が武術を続ける理由です。
紅掌派心意拳。
受け継ぎ、深め、極め続ける。
そして、その道を歩むことを心から楽しむ武術です。
