近年、「安全と安心」を求める声が非常に大きいものとなっていますが、何故安全と安心はセットになっているのでしょうか。両者は全然違うものです。例えば食べ物に関して、安全を求める消費者の声に応えるのは、可能というより、当然の義務といえるでしょう。ところが安心となると、提供するよう努力することは出来ても、それが結果に繋がるかは全くわからない非常に不安定なものである上に、「安心を求める」という行為自体に妙な違和感を感じます。


 安全性を高めるとは、言葉を返せば危険性を低くするということですね。危険かどうかは外的な要因で相当左右されますから、他人が何とかできる範疇の話が大きいです。


 ところが、安心を提供する、逆には不安を取り除くというのは、本人の心の持ち様に大いに左右されます。安心感は、どこまでいっても充足するということはありません。どれだけ安全でも不安な人は不安だし、「安全だよ」と諌める声は不安感をさらに増すことが往々にしてあります。


 私は飛行機が飛ぶという理屈はそれなりに知っていますし、飛行機に乗ることに何の不安感も感じません。ただ、飛行機が不安で嫌いという人は確実に存在します。安全と安心は全然違う概念なのですが、混同することに誰も違和感を感じていません。


 信用があれば安心感もついてくる、とは大まかには正しいと思いますが、しかしつい先日「あるある問題」が発生して、マスコミの言うことなどまるで信用できないということが明るみに出たにもかかわらず、タミフルは危険だと主張するマスコミは未だに絶大な信用を置かれています。あまりにも清廉潔白に見える人物が逆に怪しく見えることもあり、安心を確保することは並大抵のことではありません。

 もちろん最大の問題は、不安を煽るエセジャーナリストが跋扈していることです。世の中、困ったことに、安心情報よりも不安情報の方が受け入れやすい傾向があります。


 何よりも安心が欲しい、という方はまずセラピストの門を叩くことをお勧めします。


koume