ここ数日、あるあるはもちろんとしてライブドア堀江がどうとかAPAの偽装がどうとかニュースは様々ですが、新聞やテレビではほとんど報道されていず、にもかかわらずおそらくこれからの国民生活において相当重要度が高いと思われるニュースがこの大野病院事件の公判です。
大野病院事件は、ネットを見る医師の方にとってはほとんど常識といえるほど有名な事件なのですが、簡単に説明すると、福島県・大野病院の産科に罹って帝王切開を行った妊婦の方の、癒着胎盤が判明し、医師の奮闘むなしく亡くなられたという話です。その医師は加藤という方で、大野病院では1人医長でした(つまり病院唯一の産科医)。現在、福島の加藤医師といえばネットをやる医師にとっては超がつくほど有名人です。
で、何がそんなに有名なのかというと、この加藤医師が、去年の2月に業務上過失致死で逮捕起訴されたのです。
前置胎盤において胎盤が癒着しているという事例はごく軽い程度のものなら案外しょっちゅうあるらしいのですが、この事例ほどひどい癒着胎盤は1万例中1件あるかないか程度の頻度といわれており、つまり産科医師一人が一生涯の間に1例遭遇するかどうかというほどのレアケースで、しかも事前に予見することが不可能であるという事です。つまり手術してみないと癒着胎盤かどうかが分からないということです。
こんな事例に当たってしまうことは妊婦・医師双方にとって運が悪いとしか言いようが無いものですが、もちろん当事者たちはそうは言っていられません。加藤医師は最善の努力をしました。この事例では胎盤をはがした後すぐさま20リットルもの血液があふれ出し、ほとんど血の海と化した状況でも、この場合は唯一の治療法といえる子宮全摘出を試み成功させています。しかしそれでも力及ばず、妊婦の方は亡くなりました。
もともとこのような癒着胎盤での救命は、十分なマンパワーと完璧な施設・資材をもってしても相当難しいものです。加藤医師は病院唯一の産科医として、これ以上は求められないほどの医療を施したと、全国の医師から認められています。遺族の方には申し訳ありませんが、これでも助からなかったのならそれは天寿としてしまってしょうがないとしか言えないものだったのですが、これを業務上過失致死といわれて全国の医師たちは仰天しました。福島地検が病院に乗り込み、加藤医師を拘束して連行した姿はマスコミの電波に乗り、ほとんど重大な犯罪者同然の姿で報道された映像は産科医たちに無言の大打撃を与え、この瞬間は現在では「日本の周産期医療が崩壊した日」とまで言われています。
この時、福島地検が逮捕・起訴後の発言がまた味わい深くて、「経験も無いのに、いちかばちかでやってもらっては困る」という趣旨のことをコメントしました。医療関係者には有名なコメントです。先ほど挙げたようにこの事例は、経験すること自体が非常に珍しく、また医療は本質的に「いちかばちか」でやるものです。今回の癒着胎盤の事例を、誤解を恐れずごく大雑把に表現すると、「上手くいけば50%の確率で救命できる治療を、いちかばちか行った」というくらいでしょう(数字自体は50が正しいのかあるいは10くらいかは分かりません)。通常の「いちかばちか」と医療の場合が違うのは、この治療を行わなければ患者は確実に100%死ぬということです。何もしなければ患者は死ぬのなら、生存の可能性にいちかばちか賭けるのは医療として当たり前でしょう。
さて冒頭に書いたとおり、この事件の初公判が先日行われました。内容については以下の記述が最も詳しいようです。
http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_ace1.html
速報 大野病院初公判傍聴記
これを読むと、検察側の主張が、医学的な真相を遠く離れ、あくまで人情・感情に訴えるものであり、科学的な根拠は何も無く単に訴訟戦術のみによって裁判に勝とうとしている姿がありありと見えてきます。何しろ、証拠として提出した産科医療の専門書を拒否し、自分たちが相談を求めたのは単なる婦人科(産科ではない)に過ぎないというおそろしさで、しかも起訴状を読むに当たって「臍帯」を「ジンタイ」と読む驚くべきお粗末さ。これで訴訟が出来る(しかも、まかり間違えば勝つかもしれない)なら、どんな屁理屈でも訴訟に出来ます。検察って楽な商売ですね。
「医者は、病人を治して当たり前」「出産は、安全に出来て当たり前」という意識が行き過ぎ、近年の医療現場では驚くべき訴訟(医学的に見て非常識としか思えない訴訟、しかもさらに驚くべきことに原告勝訴もたびたびある)が頻発しています。大野病院事件ではなんと刑事訴訟の場まで使われました。これの影響は実際には計り知れないものがあり、例えば今回の大野病院の事例以後、日本全国で産科医が激減しています。もともと非常に苛酷な環境にいて、それなのに最善を尽くしても犯罪者扱いされるかもしれないということで、今現在若い研修医が産科医を志望しようものならほとんど変人扱いされるそうです。まあもちろん、もともとそんな医師はほとんどいませんが。
ここ最近になってようやく、各新聞も医療崩壊について取り上げだしています。しかし現在、医療崩壊はすでに完成しているといって過言ではありません。あまりにも遅かったのです。しかもそれ以前は新聞やテレビ報道などは医師叩きに終始しており(大野病院事件からしてそう)、特に毎日新聞などは医療関係者からはマッチポンプ新聞といわれています。
「女性は子供を産む機械」発言をした柳沢厚労相はバカ以外の何者でもありませんが、それに加えて、出生率を現状並みとかどうとかのんきに試算している姿がさらに輪をかけてバカとしか思えません。今後数10年の間、死産の発生率が急騰するのはもう決定事項なのです。我々被医療者はせめて、この事件の成り行きを通して、医療が今後どう変化していくかを見守っていくしかありません。今からでも、見ないよりはましです。
koume