15.6年前のこと、アメリカのセドナのOSHOアカデミーで、(現ユニテイインスティテュートのデレクター)プラサード(旧名ワドゥドゥ)を筆頭に、アルビナやリーラ、アンタール・コマラやインディバたちなど、アカデミーのメンバー総がかりで、メタ・フィジカル・サージェリー(形而上学的手術)というものをやってくれた。それは、今で言うサトルボディヒーリングを皆でやっくれるというゴージャスなセッション+コースだったが、それはそれは強烈なプロセスで、今だその時のことはブログなどちゃんと報告していない。サージェリーだけでなく、僕のためにセッションや瞑想のプログラムを組み立ててくれて、その頃人数の少なかった毎夜のホワイトローブも、僕のプロセスの進行に合わせて、OSHOの講話を選んでくれていた。二回目の手術が終わって(といっても肉体の出なく、サトルボディとチャクラの手術)の夜の講話は、僕にとってはプラサードからの最大のプレゼント。昨日ふと本を手に取ったらその懐かしい講話が出てきた。バウル愛の歌からです。以下
最愛の人、OSHO
これ以上探索することも探求することもありません。それらはすべてとまりました。わたしは特になにも見つけだしませんでしたが、自由を、自由になったのを感じます。わたしは不安もなく自分のビジネスに取り組んでいますが、わたしにとっては、これが至福です。そしてわたしはここでのあなたの現存に対して、あふれるような感謝を感じています。 ギリシア
特に見いだすべきものはなにもない。特定のものに対する探索は幻想だ。あくまで架空のものだ。マイソドは特定のなにかを探し求めるが、それこそマインドにまつわる問題だ。神は特定のものごとでもなければ、特定の存在でもない。神はまったくの実在だ。あるものすベぺてが神だ。神は最大の普遍性だ。<彼>は、あらゆるところにいるから、あなたはどこかで<彼>を見つけることはできない。あなたは<彼>をどんな場所においても見つけることができない。というのも、<彼。は全体だからだ。総体だ
からだ。
あなたは<彼をさし示すことができない。その指示がなんであろうと、それは間違いだ。<彼>はすべての方向にある。内部にそして外部にある。
マインドは幅が狭い。それは非常に集中した方法で探求しつづける。集中は神に向かうアプローチではない。集中はマインドのアプローチだ。神はあらゆるところにいる、だから、あなたはリラックスしなければならない。あなたは瞑想的にならなければならない。それが集中と瞑想の違いだ。
集中はマインドの焦点をあるものにだけ当てることだ。 それが欲望というものだ。集中されたマインド、どこかに達しよう、なにかに達しようとするマインド、たいへんな探求。しかし、それは狭くなければならない。そして、神は無限だ。
あなたはリラックスしなければならない。そして、あなたはすべての探索を落とさなければならない。ただそのときだけ、あなたは<彼>を見つけ出す。探し求めたら、あなたは絶対に、<彼>を見つけださない。
ただ在ることだ。そうすれば、<彼>はいつもあなたを取り巻いてそこに在る。<彼>は一瞬たりともあなたを取り残したことはなかった。というのも、あなたは<彼>なしでは存在できないからだ。わずか一瞬の間であろうと〈彼〉なしでいることは不可能だ。<彼>はあなたの生命だ、<彼>はあなたの存在だ。
あなたは食物なしでも数か月の間は存在できる。水なしでも数日の間は存在できる、空気なしでも数秒の間は存在できる。しかし、たとえわずか一瞬の間でさえ、あなたは神なしでは存在できない。それは不可能だ。
これが、わたしのここでの努力のすべてだ、あなたがリラックスするのを助けることだ。わたしは、あなたが神を見つけるのを望むように、あなたを緊張させ、野心的にするためにここにいるのではない。つづく