果たしてその行為に意味はあるのか。あるいはポーズか。 | view design 2.0

果たしてその行為に意味はあるのか。あるいはポーズか。

本日(7/8)付けの朝日新聞より


あの秋葉原の事件を受けて、
日本各地でダガーナイフの販売を規制する動きが加速しているらしい。



ナイフを集めるコレクターがいる事は知っているが、
別に日常生活に必要なものではない。


朝日新聞を読むと、
例の事件が起こるまで多くの都道府県が、
18歳未満への販売・譲渡を規制していなかったように書かれている。

ダガーナイフのような、本来攻撃を目的としている武器を、
青少年と呼ばれる人間に必要であるか否かは明白である。
少年犯罪の火蓋を切って落とした「酒鬼薔薇事件」の時点で、
この規制が行われていてもおかしくない。



しかし、今回の論点はそこではない。
オレが今回問題視しているのは、
タイトルにも似たような事を書いているが、
「ダガーナイフを規制するという行為が、こういった犯罪を抑止する結果を生み出すか」
という点である。


劇作家の山崎哲氏は、
「ダガーナイフを規制する動きは危険性を訴える意味はあるが、
 ネットなど様々な入手方法がある事と、今回の容疑者が成人である事を考えると、
 今回のような犯罪を抑止する効果はないように思う。 (朝日新聞より) 」という。
全く以て同じ意見である。

加えて、オレが思うのは、
「果たして今回の事件が起きたのはダガーナイフの所為なのか?」
ということ。

多くの国民はこの規制を見て、ある程度納得してしまうと思う。
「ナイフを持つ人間が減れば犯罪も減る」と思うからである。

現実には、包丁でだって人を殺す事は出来る。
ダガーナイフなんかよりも簡単に手に入るし、
おそらく家庭用の包丁を規制することは出来ない。


問題なのは「人を殺す」という行為であって、
手段や凶器ではないということ。


「何故殺したのか」


「何故殺さなきゃいけなかったのか」


「人を殺す事にどういう結果を求めていたのか」



「何故殺したのか」=動機について、
「人間関係に悩んで」とか「人生に疲れて」とか、そういうモノが多い。
一体どこまで悩んだり疲れていたのかは計り知れないが、
その結果のアウトプットが「人を殺す」になるのは、よくわからない。
どう転んでも根本的解決にならない。

だいたい、悩んだり疲れたりする事は人間あれば誰でもあり得る事であり、
それを動機として認めてしまったら、誰でも人を殺していい事になる。
「殺していい」というのは言い過ぎかもしれないが、
動機として認めた以上、悩んだ末・疲れた末のアウトプットとしての選択肢に、
「人を殺す」という項目が入り得る事を認めた格好になるわけだから、
そう思う人間が出てきてもおかしくはない。

「相談する」や「友達と遊ぶ」などの至極簡単な解決法が何故見つからないのか。



そういった問題はおざなりにして、
表面上の問題である「凶器」を規制するという動きは、
「ポーズ」に見えてならない。

決して凶器を規制しただけでは犯罪は減らない。
今問題視しなければならないのは、
今の人間の考え方である。


人を殺して何になるのか。