色の対比は可能なのか?
1)いろいろな作品で色彩対比
■国語科の授業で、色の対比は基本中の基本ですよね。
例えば、宮沢賢治の「やまなし」です。新美南吉の「ごんぎつね」です。
私も現役中、よくやってきました。
ところがですね。
2)「新・地図のない旅」(熊日20230520)
■これは週1の連載で、作家の五木寛之氏がコラムを担当されています。氏は、いろいろな週刊誌や新聞紙で、コラムを執筆されています。
毎回、気づきをもらっているところです。
最新のコラムで、以下の文章がありました。
そのとき彼(ボクサー)が力説したのは、差別の根は言葉にある、ということだった。たとえば犯罪ドラマや裁判劇で、<白>といえば潔白。<黒>といえば<有罪>。<ブラック・リスト>といえば要注意人物のリスト。<ブラック・マーケット>は<闇市>で<ブラック・メール>は<脅迫状>といった具合に、白は清純、黒は危険といった五感が横行していいるあいだは差別はなくならない、というのである。
この下りは、前から言われていることでした。思い出すだけでも、例えば、
「白黒つけよう」とか、「白星、黒星」とか、「教職はブラックだ!」、「グレーゾーン」等々です。
3)対比指導はどうなる?
■確かに、色で様々な印象がありますよね。だから、国語科では色で物語の様相を判断・対比させてきたのでした。
しかし、こうしてこの語感がある以上、差別はなくならないというのが「真実」なら対比指導はできなくなるのではないでしょうか。
■ずっと昔にこんな言い換え、つまり互換もありました。
つまり、「肌色」というのは、各国の人種によって違うのだから、「パールオレンジ」と言いましょう、という指導でした。
■これは理科や家庭科の学習とも関連しているような気もします。
夏・冬の服装です。暖色系とか、よく言いますよね。これは、色によって熱吸収率が違うから、季節に応じた色を選択すべしというわけです。
これらが国語科の色彩対比に与えている影響は大きいと思います。
大人が子どもに、この感覚を伝えているのかもしれませんね。
一体、どう考えるべきなのでしょうか。