新年早々、改めて通潤橋をこそ!!

 

■通潤橋特集かと思わせる記事が2つほど、ありました。以下の写真は、熊本地震で影響を受けた橋を修理しているシーンを撮影したものです。

 

 

1)毎日新聞(20230101)「次の半世紀へ その先へ」

 

 こうあります。

 

(前略)人、そして時代をつなぐ橋の物語をどうぞ。

「1854年建設 今も現役 通潤橋」

 

(前略)現在の町長に当たる惣庄屋、布田保之助が計画したのが「通潤橋」だった。1854年に建設された国内最大級の石造りアーチ水路橋は、国指定重要文化財でありながら今なお現役で100ヘクタールの農地を潤す。(中略)「裏築」と呼ばれる内部構造が分からなかったため、崩落部分の周りの石を少し外して中を確認しながら修復を進めた。

 改めて勉強になりますね。

 

2)読売新聞(20230101)「くまもとの歴史・現在・未来を知る」

 

 ここには、種山石工のことが紹介されています。

 

「当時国内最高レベルの石橋築造の技術者集団 種山石工」

 

 これによると、こんな歴史です。

 

●日本最初の眼鏡橋は、1634年に長崎で、中国から渡来した黙子如定(もくすにょじょう)禅師が架けたものだそうです。

 

●その技術が佐賀から福岡、そして熊本へと伝わるまで140年かかったそうです。

 

●熊本で一番最初の石橋は菊鹿町のものだそうです。

 

●これを建てたのが、氷川町出身の岩永三五郎氏だそうで、美里町に雄亀滝橋という水路橋を作ったそうですが、通常より5倍も早かったということです。

 

●この三五郎の兄たちに、橋本勘五郎(丈八)は技術を学んだということです。

 

●勘五郎は明治政府に招聘され、神田筋違眼鏡橋を建造したそうです。

 

●通潤橋の完成で地域の人々の所得は大きく上昇したそうです。

 

●熊本県内に650基ほど造られた石橋は、現在存在するのは340基だそう。

 

●現在、種山石工の技術を伝承している人はたった一人、竹部光春氏(美里町)のみで、文化庁の支援を受けて石橋技術養成講座を開いているのだそう。

 

 うまく引き継いでいけるといいですね。

 

3)熊本日日新聞(20221231)「ニッポン橋ものがたり」

 

 こちらには、次の行があります。

 

肝心の通水管が高い水圧に耐えられず、実験は失敗続き。突破口は布田が考案した石管だった。サイコロ状に切り出した石に穴を空けた石管を600個も用意し、つなぎ目をしっくいで埋めて3本の通水管としたのだ。(中略)通潤橋の名は、中国の古典「易経」の一節「沢は山下にあり、その上に通ず潤いは草木百物に及ぶ」に由来する。先人がもたらした豊かな水は草木のみならず、人々の心も潤している。

 

 これまた初めて知ったのは、名前の由来でした。

 

 実験箇所は、ここです。

 

一番下の写真の川底(道の駅近くの体育館先の橋から眺めた光景)から、通潤橋の通水管(溶結凝灰岩)を切り取って築造していきました。

 

 

■なぜ今、通潤橋か、それは、人と人を、人とモノを、人とコトを、人とカネを結ぶことが重要な時期となっています。

 通潤橋は、困窮していた白糸台地を豊かにしていきました。

 今、世界が分断(貧困層と富裕層、国の違い、その他)されています。「つなぐ」必要があるのかもしれません。橋は、「つなぐ」ものです。

 新聞社は、そんな願いをこめているのかもしれませんね。