■熊本日日新聞 2018年2月12日(月) 「真冬・・・」

 

■和水町の肥後国衆祭りが開催されたという記事です。なぜ、和仁勢1000人と豊臣勢1万人が戦ったのかの説明がないのですよね。ここを説明すると、児童生徒は自学に取り上げられるのですがね。あるいは、教員サイドとしても、授業で扱いやすいのですよね。

 

■次は、社会科教育誌(明治図書)2016年7月号に連載した原稿の一部です。

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1.陣取図から
 子どもの遊びに「陣取り」というのがある。昼休みに「陣取り」をして遊び、戦国時代の学習に入っていきたいものである。
 上(省略)は、熊本県和水町の「田中城」に関する設置板である。ここに、仕寄陣取図が紹介してある。山口県文書館にアクセスすると、この図が閲覧可能である。
 

 子どもたちには、現代の文字やルビを横に付け加えて提示したい。次のようなことを説明する。
■秀吉が送り込んだ肥後国主たる佐々成政による検地の断行で、肥後の武士団(国衆)は「肥後国衆一揆」(1587年)を起こす。その一つが上記の和仁氏(田中城)攻めの陣取図である。図には小早川秀包・安国寺恵瓊(毛利勢)、鍋島氏等の九州の豪族の名前も挙がっている。仕寄とは、攻め寄せる場所であり、その記録も残っている貴重なものだそうだ。■
 この後、太閤検地とは何か、調べさせていきたい。

「刀狩令」である。なお、和仁氏は36日間の籠城後、一族は滅ぼされた。佐々氏に代わり、加藤清正が肥後へとやってくるという歴史になる。写真の小高い丘(省略)は田中城跡である。
 

■新聞記事がNIEとして生き残る道は、いかに教科書準拠というか、その周辺を解説として付け加えられるかというところなのですがね。背景を叙述してもらいたいものですね。