タイランド:日系銀行のタイ流ストライキ

 

襄公(じょうこう、生年不明 - 紀元前621年8月15日)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前628年 - 紀元前621年)。姓は姫、諱(いみな。生前の名前)は驩(歓とも呼ばれる)。春秋五覇の一人に挙げられる第22代文公の子。

 

即位後間もない紀元前627年、正卿(宰相のこと)先軫(せんしん:中国春秋時代の晋の武将・政治家。狐偃に見出されて文公に仕えた)の献策で殽(こう)の戦いが起こりました。孟明視が率いる秦軍が攻め込んできたのですが、果敢な襄公は白い喪服を墨で黒く染めて出陣し、殽の地でこれを打ち破ったのです。喪服を染めた理由はわかりませんが、父の喪中で喪服を脱ぐわけには行かず、白い喪服のまま出陣するのは不吉であると思って黒く染めたのではないかと言われています。歴史上に残る初めての喪服の戦いかもしれません。

 

作家、深田裕介さんの小説「バンコク服喪支店」をご存じでしょうか?

 

小説の内容は、日本から来た猛烈社員が、タイと日本の習慣の違いを無視して仕事を強要。タイ人社員から総スカンを喰います。そのタイ人の抗議方法が振るっていて、全社員が、喪服を着て仕事に就くというものでした。

 

この小説を地でいくような出来事が、実際、1992年4月にバンコクで起こりました。

 

日系銀行の現地支店としては、超老舗で、バンコク進出30周年を迎えた当時の名前で「東京銀行・バンコク支店」でした。

 

この年、東京銀行は、ベースアップ+物価手当で、16%のアップを回答しましたが、行員から不満が出ました。どういう査定なのか、行員によって不公平なアップ率がある、というのです。また、一般行員に対する福利厚生などに対する不満も一気に噴き出したようです。

 

その抗議方法が、いかにもタイ流でした。

声高にシュプレヒコールを叫ぶのではなく、これが私たちの気持ちの表れですと、各々が喪服を着用して普段通りに仕事につく順法闘争をしました。たしかに、重々しい黒系の喪服は、声よりも重圧感を覚えさせます。バタバタと騒ぐのはみっともない、とちょっとおすまし屋のタイ人らしいデモンストレーションです。

 

行員の声です。

 

「私は、長い間働いているのに、新しい人よりベースアップが少ないです」

「お金もごまかさずに働いているのに、仕事を評価しいてくれないのは、不満です」

「これは、抗議ではなく、気持ちを表わしたものです」

 

喪服を着用する以外は、全くいつも通りに働く行員です。

 

この抗議行動の2週間前にも、一回喪服闘争に入りましたが、銀行側の説得もあって1週間喪服闘争をやめていました。

 

この日の前日の朝には、喪服で集会を開き、手に手に、「不公平」「ここはバンコクだ、日本ではない」などのプラカードを持って、一般の通勤客にも静かに訴えていましたが、始業時までに職場に戻りました。銀行側は、開店30周年記念として、一時金5000円(日本円換算)を上乗せししたのですが、これも不服として、当分の間、喪服勤務を続けることになりました。タイではこの年、インフレから、公務員が23%の賃上げを勝ち取り、民間企業にも大きな影響を与えていました。

 

会社側が示した今年の大学新卒給与も7,400バーツと大幅に引き上げ、一般の定昇込みベースアツプ率も16%。これに対し従業員は、公務員の給与改定率23%を引き合いに出すとともに、医療費の支給方法改善など数項目を含めた要求を提出しました。しかし、支店幹部は、「今年の定昇込みのベア率は16%で、新卒給与も世間なみ以上。公務員給与の改定率はこれまでの低水準を調整されたもので、単純比較はできない。話し合えば理解してもらえるはず」としていました。

 

一方、バンコクポストは、「銀行で抗議行動」というタイトルで、短い記事を載せました。

 

バンコクポストに匿名を条件に説明した東京銀行の関係者は、

「この抗議行動は経営陣に昇給率が不当であることを示すためのものだ。今年、タイで最も利益を上げた外資系銀行である当行の昇給水準は、オランダの銀行など同業他社とは比較にならない」は主張しました。

 

この動きは、他の日系銀行にも頭痛の種となり、東京銀行の成り行きをじっとみていました。

 

東京銀行での抗議行動は、実に13年ぶり。果たして、晴れて行員の喪がいつ明けたのかは、私のメモに残っていませんでした。バンコク在勤時代の海外出張中に、平服に戻ったのでしょう。当時は、カンボジア紛争で、ニュースのホットスポットでしたから。でも、忘れえぬ抗議方法でした。