ベトナム中部にクアンガイ省があります。私たちの枯れ葉剤被害者の支援の拠点の一つです。日本とのかかわりのあるクアンガイ省の古(いにしえ)のことをとりあげます。

 

第二次大戦の終了をベトナムで終えた多くの元日本兵がかかわったクアンガイ陸軍士官学校。その創立50周年を迎えた時に、私は、ベトナムに在勤していました。クアンガイ陸軍士官学校について、ベトナム人ジャーナリストのT. V.さんの語りを書きとりました。

 

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1946年5月22日、バックソン正規軍事学校とチャン・クォック・トアン軍事学校、

クァンガイ陸軍士官学校の設立の折り、ほーおじさんはこのように教示した。

 

“国家に忠実であり、国民に貢献することは神聖なる義務、重い任務であるが、しかしわが国初の国家軍戦士の栄誉でもある".

 

当時の国家の状況は、3月6日暫定協定をフランスが踏みにじり、フランス軍総司令官アルジェン・トゥリューによつていわゆる“南部自治”が始まった。また4月下旬から5月上旬にかけてのダラット予備会議が不成功に終わった。ニャチャンの前線が崩れ、フランス軍が都市を占拠し、フーイェンヘの進路を模索していた。同時にその従軍がタイグェン地方に進出、プレイク、アンケーを占領し、 国道19号線を落としてクィニョンを攻め、クアンガイを中心とする自由区域を包囲するための機会をうかがっていた。

 

クアンガイ陸軍士官学校が設立されたのは、まさにそのような時、前線から100キロと離れていないところであった。ホーおじさんの言葉は、それ以前、南部抗戦委員会会長グェン・ソン将軍が総参謀長ホアン・ヴアン・タイと会見したときから実行されていた。そして設立に際して、当時、軍訓練局長であつたフアン・フアックを通じて、ホーおじさんの教示は2人に詳しく伝えられたのであった。

 

それ故、タインホアから中部、南部までの地域、特に山岳地帯の青年や各地の前線で戦闘に参加している戦士たち(大部分は南進隊)から入学生を選抜するという公示がなされたとき(党組織とベトミンの推薦による)、同校は600人近い志願者に文化レベル試験を行い、500人を正式に採用した。卒業時の人数は468人であつた。

 

校舎はクァンガイの人々とベトナム南部抗戦委員会の指導者たちの手によって建てられた、わらぶき屋根と竹の壁であつた。そしてまさにこのクアンガイの人々が、同校の幹部生や学生を、学習期間中ずつと養ってきたのである。ベトナムの国民性が表れている。

 

1946年6月1日、正式な開校式が行われたが、5月中旬からかなりの学院生(当時は学生と呼んでいた)がすでに集結していた。この幸運な者たちが、5月19日に同校で行われた第1回ホーおじさんの誕生日記念式典に参列することができた。

 

学生たちは4つの大隊に分けられた。布団も蚊帳もなく、靴もサンダルもなかつた。着るものといえば紺色の長袖の上下、それに短袖の上下。帽子は各自が用意する。

 

開校式の行われた6月1日は、ホーおじさんとフアム・ヴアン・ドン率いる代表団が飛行機でフランスに渡った日である。同時にフランス軍がフーイェン地方を占拠しようと、ニヤチヤンからヴァンニンに進入した日でもある。

 

式典は、国を奪う敵ヘーに満ちあふれていた。ベトナム南部抗戦委員会長兼士官学校長グェン・ソン将軍は、前線から帰って感じきたばかりの埃まみれの服で、開校式でこのように宣言した。

 

“士官学校は戦場の学校である。敵軍がわが国土を脅かしている前線と、遠くはない。士官学校は党の学校、人民の学校である。"

 

この言葉は、後に、全国の戦場で戦う戦士たちの記憶の中に、いつまでも響いていたのだった。

 

ベトナム南部抗戦委員会長である校長の他に、学校の機構には総隊長がいた。総隊長は内部活動から学習・訓練まで、学校内のあらゆる面の責任を負う。また訓練・作戦部には、 1つの部門として参議室があり、軍事教官組織(日本人士官を含む)と協力して、それぞれの担当教官を持つ4大隊の学生への講義を統一的に行うための、教案の編集と修正を受け持った。そして政治部と管理執行部。指導幹部には総隊長と政治員がおり、入学選抜試験の数日間と開校式の日の政治員はグェン・チン・コウ、その後の全期はドアン・クエ(彼はその後国防省大臣に就任した)。総隊長はフアム・キエット(別名をテ・ド。フランス植民時代に2度投獄されていることから、 “2回投獄"の意味)。初期の総隊長はチャン・トゥイー・その他には歴史、文化を教える数人の高級幹部員がいた。

 

学内には元フランス遠征軍隊伍の共産党であったドイツ人教官が2人いた。ホ一・チ・ザン(注;1996年当時ベトナムテレビ総局長の兄)が哲学と、人類の源の歴史、第2次大戦からの世界の状況を講義した。ホー・チ・ロンは兵器についての講義。軍事については、日本人の教官がそれぞれの大隊を受け持った。

 

 ドン・フン(日本名夕ニモト・キクオ)はC(注;大隊)1、ファン・フエ(同カモ・トクジ)がC4-後にミン・タム(同サトウ)に交代一、ファン・ライ(同カズマサ・イガリ)がC3。ファン・ライとフアン・フエの2人は、ファンティエットからニャチャンまでの戦線を、われわれの軍について戦った。ニャチャンが崩れた後、彼らはベトナム南部抗戦委員会長に動員され、クァンガイ陸軍士官学校の教官となった。ミン・ゴック(同ナカハラ・ミツノブはC2を担当したが、イカワ将軍とともにフエでの数日間われわれを援助し、蒋介石軍の中国船が日本軍の武器・軍事用品接収・管理のためにクィニョンからビンチティエンに北上してきたときには、優れた武器と軍用装備をわれわれに提供してくれた。イカワ氏は、日本軍が連合国に降伏する以前は、ハラオからクィニョンまでの日本軍各都隊を指揮する司令官であった。ミン・ゴックは、日越友好協会会長、また日越貿易会会長を務めていた。参議室にはまた、クァンピンから来た校医のレ・チュン(同イノウエ)がいた。

 

グェン・ソン校長の教える戦争とゲリラ戦の正規講義の他に、日本人教官たちによる武器の使い方、3人・小隊・中隊での進攻体勢などの訓練があつた。特に“4大技術"と呼ばれる射撃、手榴弾、銃剣、城政めについては、各教官は大変熱心に指導した。

 

フィン・チュン・フォンはこのように語る。

「日本人の士官が私たちの隊伍にやって感じきたとき、彼らには私たちの未熱な

軍隊を訓練しようという主たる目的がありました。だから彼らは貴重な秘密資料を持ってきており、その内容はどの軍事機関のものもそろえてある充実したものでした。たとえば戦闘条令―内部条令―救急衛生条令―など。ニヤチャンでの戦闘に臨んだ際にファン・ライが適用した特別な戦法は、 トッコウタイというものでした。」

 

しかし、士官学校の生徒と幹部員がグェン・ソンから学んだ最も大きな教えは、軍をつかむ、というものである。この言葉は、彼自身が中国の赤軍の隊伍で戦っていたときの多くの経験を総括したものである。 ;戦争中の戦力配置について基礎的戦術、戦略を持つこと。たとえ力不足の小さな部隊であっても、指揮官は軍をつかむ、つまり軍を訓練し、軍を育て、軍を使わなければいけない。これがまさに、 一軍事指揮官の総括的な見識である。

 

同校には、マルクス・レーニン主義研究の支部会があり、またドアン・クエが書記を務め、何人かの学生たちが集まってできた、学内で初めての党支部があつた。C3では、 “斧"という名の新間が発行されたが、これは当時、軍隊における初めての壁新聞である。

 

3ヶ月の学習の後、学生たちはlヶ月間、ダナンから南部各省までの中隊に配属され、実習訓練を積みながらアンケー、ボーボー、カムソン、コンソンなど各地の前線に直接参戦した。またクァンガイ南部の沿岸サーフィンで、敵軍が海側から陸に攻め込んできた時に、その防衛戦に参加した者もあった。

 

1946年11月22日、フランス軍による戦闘開始という国家の緊急事態を前にして、

ホーおじさんと党中央委員会はソンタイ軍備学校とクァンガイ陸軍士官学校に、期限前の満期を命じた。 100人以上の青年たちがハノイヘ向かい、各軍区へ散った。ソンタイヘ行き、チヤン・クォック・トアン陸軍士官学校の第2期養成クラスの幹部員となる者もいた。グェン・ソンは、第4区の司令官長の任を受けるまで、同校の校長を務めた。2人の日本人教官ミン・ゴックとファン・ライは、第2期からその後の数期、同校にとどまって講義を続けた。

 

その他、クァンガイ陸軍士官学校の生徒たちには、第4区、第5区、中部第6区、第7区、南都第9区などに入った者、ザーディン正規軍事学校の訓練員となった者、バーズォン(注;隊長の名)小隊、ファンティエットE81小隊、沿岸部E300小隊(ニャーベー、カンズオック、カンドゥック)などに入隊した者、カンボジア東部に渡り戦闘に参加した者、軍事諜報活動を行った者などさまざまである。また武器やインドシナ通貨を北部から南部の戦場まで海路で運搬するという、重大な任務を負った。者もあった。卒業後50年の1996年6月1日の時点で、500人の生徒たちは120人余りしか残っていなかった。

 

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クアンガイ省の支援に入っている時でした。多分、今から7~8年前になるでしょう。当時のVAVAのクアンガイ支部の会長から、クアンガイ陸軍士官学校の調査を共同でしないかと声をかけられました。快く引き受けたのですが、時間がなくて共同調査は、立ち消えになりました。旧日本軍の残留兵士が関係した物だけに、興味は十分あったのですが、悔しい思いをしています。

 

クァンガイ陸軍中学の生徒は、部隊または共産党支部の推薦を受けた中学校(少数民族は小学校)卒業または実戦経験のある者で入学試験に合格した10代後半から20代前半の約400人の男子であった。

 

生徒は、4つの大隊に分かれ、各大隊には指導教官1名、助教官1名、通訳1〜2名が配属された。教官は教練(実技指導を伴う講義)を担当、副教官は指導内容の実演(戦闘における動作など)や戦場生活に必要な雑知識の伝授を担当した。

 

分かるだけの参考資料は少ないですが、日本人名を挙げておきます。

 

第1大隊

教官 谷本喜久男少尉(ベトナム名ドン・フン(董雄)、独立混成第34旅団情報将校)

副教官 青山 浩軍曹(チン・クァン)

第2大隊

教官 中原光信少尉(グエン・ミン・ゴック(阮明玉)、独立混成第34旅団情報将校)

副教官 大西某(通称クァン)

第3大隊

教官 猪狩和正中尉(ファン・ライ(潘來)、第2師団歩兵第29連隊第3大隊第9中隊長)

副教官 柳沼利伝春上等兵(ヴァン、第2師団歩兵第29連隊)

第4大隊

教官 加茂徳治中尉(ファン・フエ(潘惠)、第2師団歩兵第29連隊第3大隊第9中隊第2小隊長)

副教官 峰岸貞意兵長(チャン・クォック・ロン(陳國隆)、第2師団歩兵第29連隊)

医務官

酒井秀雄上等兵(レ・チュン、第2師団野砲兵第2連隊)