ご苦労様・お疲れ様などを目上に使うべきではないという議論は,思い込みと上下関係を非常に強くとる人によって歪められていると思う。
ビジネスでは使うべきではないとされている,という実利面が幅を利かせる思考停止の陰に,とてもまずいものがあると思う。
実際ビジネスマナー系のサイトでは,目上の人にはご苦労様は使わない,ねぎらいは本来目上から目下という話が根拠を示さない形で山ほど登場する。
ある場面で,お疲れ様禁止の通達に異を唱えた(少なくとも労い言葉を目上に使わないというのはおかしいと思う)関係上調べたのでついでに少し整理する。
たとえば,お疲れ様が最近問題視された事例としては,2015年のヨルタモリにきっかけがあるらしい。
そこでは日本語教育研究者の園田博文の言葉がひかれ,使用が失礼に当たるという見解が示されている。
タモリ口火の「お疲れ様禁止」 「こんにちは」導入の会社も(https://www.news-postseven.com/archives/20150804_339838.html)
タモリの言葉が重みをもつのは,20世紀くらいまでは存在した教養人(のような扱いを受けうる存在になっている)の言葉の重みを今の人でも感じることがある(のかもしれない)となかなか面白い現象だが,少なくとも記事にあるように,ご苦労様は望ましくなく,お疲れ様と目上を労うというマナーが広められるなかでこの言葉が混乱をもたらしたことは間違いない。
タモリがもしご苦労様と混同してお疲れ様に異を唱えたのだったとしたら,一人の教養人の勘違いが言語使用の実態を大きく変えるのだろうか。
教養人(仮)の問題提起を強化するための専門家の見解も確かに示されているが,では専門家とは誰なのか。
CiNiiで園田氏の論文を調べたが,少なくとも労い言葉を専門とした研究者の見解ではない。
2015年時点で,既に2人程度は,この分野に関して紀要ではあるが論文を書いている人たちは存在しているなかで,なぜ彼が選ばれたのか。
一人は1999年に博士課程の院生として『語文研究』に「「御~様」表現の史的考察 : 「ねぎらい」表現の変遷から」を著した宅間弘太郎であり,もう一人は,2011年に『明海日本語』に「「御苦労」系労い言葉の変遷」を書いている倉持益子である。
細かい議論は省略するが,両者とも多少の違いはあれ,18世紀後半から大正期にかけては,目上への使用が無視できない量存在したこと(特に倉持は江戸期の使用例では敬意の対象に使用していたものが23例中20例あるとしている)は共通している。
倉持は,先行研究などでの異議(いずれも2000年代)を受けて,「御苦労」が目上からの表現だとするのは近年の時代考証されていない作家や警察・軍隊組織での使用が起源であり,近世にはむしろ目上からは大儀を用いたとしている。
そして,歴史的には大正期から目下への御苦労様の使用が目上への使用と逆転しているという今日につながる変化の時期を特定している。
宅間は,「御~様」表現が18世紀後半に登場したとしており,御~が先に現れて,その後様がつくということを指摘し,それは敬意遁減の法則によるのではないかと指摘している。
ちなみに宅間自身は御苦労などが目上から目下に使われていたと想定しているが,明快な根拠は示していない。
むしろ,それならばなぜ「御」という敬意を示す言葉がつけられたのかという謎が生じてしまう。
ただ,少なくとも宅間も目上の人へのねぎらいの使用が少なくともかなり許容されていたことは指摘している(47)。
一方で,上下関係に関する指摘は興味深い。
宅間は「御~様」が「話し手と聞き手の間に極端に身分の格差がある場合には使用されない」(56)としている。
これらを重ね合わせて考えるなら,現在目上への使用が失礼だとされる御苦労様ですら,近世後期にはむしろ目上に向かって用いる用法であり,その使用イメージが軍隊や警察組織などの階層的な組織によって現代同様に逆転したこと,18世紀後半までは御苦労様などの敬意表現がほぼみられなかったこと,厳格な身分の関係が崩れてきたなかでの敬意表現として御苦労様が登場したこと,などが見て取れる。
つまり,御苦労様は当初は上下関係が不明確化するなかで相手に敬意を表して労う表現であったのだが,軍隊的組織での使用によって目上が目下に使う言葉というイメージが定着し,そのイメージを受けて明治期以降の人が御苦労様失礼説を唱えるようになった,といってよいのではないか。
御~様という表現をもってして失礼というのは,むしろそのイメージに踊らされた主観なのだ。
それを根拠も確認せずに再生産するという愚を学問の府ですらしばしば犯す。
なぜ問題なのか,本当に問題なのか,という問いを立て,根拠を調べるというのは,当然の研究者のリテラシーなのではないのか。
ビジネスマナーを所与とみなす彼らの一部に対しては非常に懸念がある。
また,そのようななかで目上への労い禁止が言われることにはさらに不安もある。
それは,身分社会の再来という懸念だ。
御~様がもともと身分社会の緩みに起源をもち,御苦労様禁止が目上への労いは失礼という意識に基づくなら,それが徹底されることを求める圧力が強まることは近世的な身分秩序への回帰を予期させる。
御苦労様が目下へのものというイメージになり,代わってお疲れ様が上下を問わない表現として使用されるようになるという歴史と,それすらも失礼とされるようになる現状を考えると,目上への労い禁止を主張する者は,自分が目上であるという対等ではない関係を前提にしているようである。
しかし,近代日本が受け入れていった原則は身分の平等であり,個人の平等という,人間の価値の等価原則だ。
そのような関係のなかで敬意を示す言葉だった御~様言葉が禁止へと向かう先にあるのは,人を平等と見ない社会なのではないか。
タモリの言葉が重くとられ,批判的考察も経ずにお疲れ様禁止へと流れたような現状も,その懸念を強化する。
誰が発したかではなく,どのような根拠があるかが言論において重視されるのが現代社会のはずだ。
その原則の崩れを想起させ,上下関係を強調する労い禁止論を,僕は告発する。



