伊賀の里は、夏の光がじりじりと降り注ぎ、田んぼの水面はきらめいていた。
堂上直己(どうじょう なおみ・21)は、旅の途中で腰を下ろし、スケッチブックを膝に広げていた。美大生の彼にとって、見知らぬ土地の風景はすべてが新鮮で、描き留めておきたくなるものだった。
ふと視線を向けると、田んぼの隅でしゃがみ込み、タンポポの葉を摘んでいる小柄な少女がいた。麦わら帽子の下からのぞく瞳は澄んでいて、陽の光を反射してきらきらしていた。
直己は筆先を止め、その少女をそっとキャンバスに加えた。緑と水の境界に立つ小さな人影が、風景に命を吹き込んでくれるように思えたのだ。
絵を仕上げてから、直己は声をかけた。
「ねえ、君。何をしているの?」
少女は振り返り、にこっと笑った。
「あたし、詩水(しみず)っていいます。将来デザイナーになりたいの♡」
そう言うと、背負っていたリュックをごそごそと探り、
「あった、あった!」
と、スケッチブックを取り出した。
ページをめくると、色鉛筆で描かれた服のデザイン画がいくつも並んでいた。ドレス、ブラウス、帽子、靴――どれも子どもらしい想像力にあふれていて、線は拙いが、熱意が鮮やかに伝わってくる。
直己は思わず目を細めた。
「へえ……本気なんだね。」
「うん! ぜったいデザイナーになるんだから!」
詩水は胸を張った。だがすぐに目を輝かせて言った。
「ねえ、直己さんは? 何描いてたの?」
「ぼくは……ただの風景だよ。君みたいに夢のある絵じゃない。」
「見せて!」
無邪気に身を乗り出す詩水に、直己は少し頬をかきながらスケッチブックを差し出した。
「下手だし、たいしたもんじゃないんだけど。」
少女は真剣な顔でページをのぞき込み、やがて息をのんだ。
「……すごく素敵♡」
その言葉に、直己の胸が不意に熱くなった。
照れくさそうに目をそらす彼を見上げながら、詩水は心臓がどきどきと高鳴るのを抑えられなかった。
田んぼの風に揺れる稲穂の音が、ふたりの間の沈黙をやさしく包み込んでいた――。
堂上直己は、旅の途中で出会った少女・詩水のことを思い返していた。
田んぼの光景の中で振り返ったときの、あのクリっとした大きな瞳――。自分の描いた風景に命を与えてくれたのは、まさに彼女の眼差しだった。
しかし現実は違った。帰ってから彼を待っていたのは、恋人の都々子から届いたLINEだった。
――「なんか、会えない?つまんない。あなたと別れたい。」
無言の圧力がその文字にのしかかってきた。言われるまま、彼女の望むとおりキスもした。だがその先を求められたとき、直己は答えた。
「結婚もしてないのに、そんなことはできない。」
都々子は笑って服を脱いだ。
「いいじゃない、そんなの。」
だが直己は背を向けた。心にぽっかりと空いた空洞を抱えたまま、その夜は一人で帰った。
そして数日後。
直己はついに決断した。LINEを打ち込みながら、胸の奥で声がはっきりと響いた。
――「もう別れる。顔を見ても声をかけるな。そんなに男が欲しいなら、自分で勝手に見つけろ。」
送信ボタンを押した瞬間、冷たくも不思議な解放感が広がった。
その直後だった。
新しい通知音が鳴った。画面を見て、直己は思わず目を疑った。
送り主は――「詩水」。
伊賀で出会った、あの少女の名だった。
驚きと同時に胸が跳ね上がる。直己は慌てて返信した。
「ありがとう。」
そして、スケッチブックからひとつ、自分の描いた絵を写真に撮って送った。
数秒もしないうちに既読がついた。
――「素敵♡」
その短い言葉が、直己の心にじんわりと染みていった。
苦かった過去の味を洗い流すように、彼はスマホを胸に抱え、笑みをこぼした。
伊賀で見たクリっとした瞳が、また自分を呼んでいる気がした。
――
数日後、直己はどうしても胸の中のざわめきを抑えきれず、再び伊賀へと車を走らせた。
田んぼの水面は相変わらず光を映していたが、そこに詩水の姿はなかった。
「うーん……いないのか。」
思わずしゃがみ込んで、彼女がしていたようにタンポポの葉を摘んでみる。袋いっぱいに集めてはみたが、心は空っぽのままだった。
――あの子、ここにいると思ったのに。
帰ろうと車に戻りかけて、ふとスマホを思い出した。
「そういや、LINEがあったな……。」
しかし開いてみると、そこに詩水のアカウントは見当たらなかった。誤って消してしまったのだろうか。画面を見つめる直己の胸に、穴が空いたような寂しさが広がっていく。
――笑顔が、見たかった。あの子の。
そのままアパートへ戻る気にもなれず、実家へ車を走らせた。集めたタンポポを母に渡すと、母はぱっと顔を明るくして喜んだ。
「まあ、直己。こんなにたくさん……。ありがたいねぇ。」
母の声に少し心が和らいだ。
夜、なんとなく無造作にLINEを開くと――目に飛び込んできたのは、詩水からの新しいメッセージだった。
『あたしのデザイン画と、そこに込めた俳句、送ります♡』
画面に現れたのは、ぎこちない線ながらも夢を宿したドレスのデザイン、そしてその横に書かれた小さな文字。
――「たんぽぽに ひかりかさねて ゆめひらく」
直己の胸が熱くなった。思わず指が震える。
『ありがとう。もう消えないように気をつけるからな。』
そう打ち込み、勢いでドラゴンクエストのモンスタースタンプをひとつ送った。青いスライムがぴょこんと跳ねる。
数秒後。
『うわー!スライムだー!!』
即座に返ってきた無邪気な反応に、直己は思わず笑みをこぼした。
――今の子は、ほんとうに可愛いなぁ。
胸の奥に広がっていた空洞が、少しずつ温かい光で満たされていくのを感じながら、直己はスマホを見つめ続けていた。
――
堂上直己のポストに、一通の白い封筒が投げ込まれていた。差出人は――警察署。
心臓がどくんと音を立てる。中身を確認すると、そこには「出頭要請」の文字。
「……なんだこれ。」
慌てて服を着替え、車を走らせた。
警察署の待合室はひんやりしていて、背筋がざわつく。呼ばれるままに取調室のような狭い部屋に通されると、机の向こうには年配の刑事が座っていた。
「君が堂上直己くんだね。」
「はい……。」
刑事は書類に目を落としながら、低い声で切り出した。
「ある女性から訴えが出ている。君に“何かされた”とね。」
その瞬間、直己の頭に浮かんだのはただ一人――筒井都々子。
胸の奥が冷たくなる。
「……彼女だという女に、何かしたか?」
刑事の言葉は、まるで責め立てるように響いた。だが直己は即座に言い返した。
「なんもしてません。とっくに別れてます。あいつがなにを言ったか知りませんが……こっちこそ被害者ですよ。」
机の下で手を握りしめ、声が震えないように必死で抑える。
刑事は眉をひそめ、じっと直己を見た。沈黙が重くのしかかる。
――報復か。あいつ、別れ際に言っていた。
「そんなこと言って後悔するからね」
あの言葉が耳に蘇り、背筋に冷たい汗が流れる。
「……まあ、君の言い分もわかった。詳しくは事実確認をする。」
刑事は淡々と言い、メモを取った。
取調室を出たとき、直己は膝の力が抜けそうだった。
――俺はなんで、こんな目に……。
それでも脳裏に浮かぶのは、詩水の「うわー!スライムだー!!」という無邪気な文字。
心が折れかけても、あの言葉だけが救いだった。
――
堂上直己(21)のもとに届いたのは、一枚の訴状だった。
差出人は――筒井都々子(20)。
ただの痴話喧嘩だと終わらせるはずだった関係が、いまや「正式な訴訟」として彼を追い詰めてきた。
書面には「代理人:弁護士 岡松」と記されており、その横には「筒井物産」の名が重々しく刷られていた。
直己は唇を噛んだ。
「あいつめ……。親の力まで使ってくるのかよ。」
怒りが胸を熱くする。だが同時に、どうしようもない不安も膨れ上がった。
結局、彼は近所で見つけた「初回相談無料」と掲げられた弁護士事務所の扉を叩いた。
応接室で迎えてくれた弁護士は、書類にざっと目を通すと、眉間に皺を寄せて首を振った。
「……これは、ぶが悪いですね。」
「え?」
「正直に言います。相手は筒井物産。バックに資金も影響力もある。裁判に持ち込まれれば、こちらが不利になる可能性が高いです。」
「でも、俺は何もしてないんです!」
直己は必死に訴えた。
しかし弁護士は淡々と同じ言葉を繰り返した。
「……ぶが悪い。」
まるで壊れたラジオのように。
直己はその場で立ち上がりたくなった。相談に来れば何か糸口が見えると思っていたのに、突きつけられるのは冷たい現実だけ。
事務所を出ると、夕方の風がやけに冷たく感じた。
「……俺が悪いってのかよ。」
吐き捨てるように言っても、胸の奥の孤独は深まるばかりだった。
ただ、ポケットの中のスマホが震える。
――詩水からの新しい通知。
『こまったときでもふぁいと』
その瞬間、わずかに曇った空に、一筋の光が差したように思えた。
――
堂上直己(21)は、もう逃げないと決めていた。
筒井都々子(20)が仕掛けてきた正式訴訟。背後には「筒井物産」と「顧問弁護士・岡松」の名。
一人で受け止めるには重すぎる現実だったが、心の奥底で煮えたぎる怒りが恐怖を押しのけていた。
「……やってやる。俺だって黙って踏み潰されるわけにはいかない。」
その夜、直己は実家へ向かい、父・堂上直江に頭を下げた。
直江は国内有数のI T企業の社長だ。普段は厳しい父だが、直己の必死な眼差しにただならぬものを感じ取ったのか、黙って息子の言葉を聞いた。
「資金がいるんだ、父さん。筒井物産に対抗するには……。俺は本気で戦う。」
直江はしばし黙考したのち、重々しくうなずいた。
「……お前がそこまで言うなら、援助しよう。ただし、勝ち筋を見せろ。」
力強い言葉に、直己の心臓が鼓動を強める。
翌日。
直己は大学の生徒会室を訪れ、会長の岡野に声をかけた。
「岡野、お前に頼みがある。筒井都々子のこと――御令嬢だからって表に出てない悪評や素行の噂、あることないことでもいい、掘り出して欲しいんだ。」
岡野は目を見開き、ためらいを見せた。
「……堂上、本気でやるつもりか?あの家と敵対するってことは――」
「わかってる。それでも引けない。腹立つんだよ、あの態度が。」
その眼は燃えていた。
さらに直己は、紹介を頼み「弁護士・三村」と面談の場を設けた。
「三村先生、都々子を精神鑑定に持ち込みたいんです。虚言の傾向があると示せば、あいつの証言は崩れるはずです。」
三村は慎重な顔つきで書類をめくりながら答えた。
「……危険な賭けだが、不可能ではない。ただ、相手は筒井物産。中途半端な証拠じゃ逆に潰されるぞ。」
「かまわない。やるしかないんだ。」
直己の声には迷いがなかった。
その日から、彼の戦いは全面戦闘体制へと突入したのだった。
――
堂上直己(21)は、弁護士・三村の机に積まれたファイルを食い入るように見ていた。
そこに並んでいたのは、筒井都々子(20)の過去――。
女子高生時代の暴行紛いの「脱がし事件」、中学時代のいじめの記録、小学生のころに発覚した万引き。
それらが裏取りされた証拠として、目の前に差し出されていた。
「これで十分対抗できる。都々子の“完全無欠な御令嬢”という仮面は崩れるだろう。」
三村はそう言って、鋭い視線を直己に送った。
だがその日の午後、弁護士事務所に一本の連絡が入った。
「……訴えを取り下げたい、だと?」
直己は驚いて身を乗り出す。
三村は受話器を置き、深刻な顔で振り返った。
「相手方から示談案が出てきた。条件はひとつ……。」
「なんだ。」
「君に“美大を辞めてほしい”というものだ。」
直己は絶句した。
「……は?」
「こちらが払う慰謝料なし、社会的制裁もなし。ただし、君が美大を去る。それだけが条件だそうだ」
室内に重い沈黙が落ちた。
直己は思わず拳を握りしめる。
「……俺から絵を奪いたいってことか。」
三村はうなずいた。
「彼女にとっては、君の夢そのものを壊すことが最大の復讐なんだろう。過去の悪行を公表されるくらいなら、表舞台を避けてでも“君の芽を摘む”ほうが得策だと踏んでいる。」
机の上のファイルに視線を落とす。都々子の暗い過去と、示談の条件――。
胸の奥で、詩水の声が響く。
「すごく素敵♡」
あの言葉に救われた瞬間を思い出す。
直己は深く息を吐き、三村に向き直った。
「……先生、俺はどうすればいいと思います?」
三村は苦い顔をしながら言った。
「それを決めるのは君だ。夢を守るか、安全を選ぶか。」
直己の眼は揺れていた。
――
堂上直己(21)は、示談条件の「美大退学」をどうすべきか、胸の奥で答えが出せずにいた。
そこで彼は、生徒会長の岡野を頼ってみることにした。
放課後の生徒会室。机に広げられた卒業制作の資料を前に、岡野は目を丸くした。
「……お前、ほんとに大ごとになってるんだな。」
直己は苦笑いを浮かべた。
「俺だって信じられないよ。示談で美大辞めろって……ふざけんなって思うけど、現実に突きつけられると迷うんだ。」
岡野は椅子にもたれかかり、大きくため息をついた。
「こいつは……俺も卒業制作で頭がいっぱいだがな。アドバイスするとしたら――自分の正義にこだわれ、かな。」
直己は顔を上げる。
「正義に……?」
「ああ。誰が何と言おうと、自分の気持ちに正直でいろ。そこから解決の糸口をつかめる。少なくとも俺はそう思う。」
岡野は少し笑って、ペンを回した。
「それとさ。お前、あの“まっすぐな中学生”のLINE友達がいただろ。名前……詩水だっけ?」
直己の心臓が跳ねた。
「お前、この子から“素敵♡”って言われたとき、めちゃくちゃ顔がほころんでたぞ。デザイン画も見せてもらって、あれ中学生の域を超えてるって、るんるんしてたじゃん。だったらさ、いっそこの子にも聞いてみろよ。」
直己は苦笑しながらも、胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。
――そうだ、俺には詩水がいる。あの子は無邪気に本当のことを言ってくれる。
岡野は片手を挙げ、
「まあ、結局決めるのはお前だ。でも俺は応援するぞ。」
その言葉に直己は深く頭を下げた。
帰り道、夜風に吹かれながらスマホを開く。
詩水とのトーク画面を眺め、指が迷う。
――この子に、俺の迷いを打ち明けてもいいのだろうか。
胸がどきどきと高鳴っていた。
――
堂上直己(21)は、夜の机に計算用紙を広げていた。
入学金、授業料、施設使用料、画材費諸々……すべて合算していった結果、はじき出された額は――480万円。
「……これを示談金として受け取って、美大を去る。」
自分なりに出した結論だった。悔しさはある。夢を途中で閉ざされる痛みもある。だが、ただ奪われるだけでなく「価値」として突きつけてやりたい。
その決意を、真っ先に伝えたい相手がいた。
――過去木詩水(13)。
彼女なら、無邪気で真っ直ぐな目で、きっと何か言ってくれる。
直己は翌日、詩水の通う中学校の校門へ向かった。
昼下がりの風が制服姿の生徒たちを吹き抜けていく。
だが待てども詩水は出てこない。
(……いないのか?帰ろうか……)
内心焦り始めたその時だった。
校門の影から、ひとりで歩いてくる小柄な人影――。
「……詩水!」
声をかけた瞬間、胸の鼓動が一気に高鳴った。
振り返った詩水は、ぱっと笑顔を見せる。
「直己さん!」
二人は並んで歩き出し、直己は深く息を吐いてから訴訟のことを語った。
筒井物産、示談、そして「美大を去る代わりに480万円を支払ってもらう」という自分の決断――。
詩水は話を黙って聞いていたが、やがてくすっと笑った。
「うん、いいと思うよ。大学なんて、また入り直せるし、編入だってできるから。だから落ち込まなくていいんだよ。」
彼女は屈託のない笑顔を向けてくれた。
真っ直ぐな瞳に、直己は胸の重荷が少し軽くなるのを感じた。
「……はい。」
気づけば、自然に微笑み返していた。
田んぼ道に沈む夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
まるで未来が、まだ続いているのだと告げてくれるように――。
――
堂上直己(21)は、あの日、中学生の詩水に背中を押されるようにして、自らの決断を受け入れた。
――美大を去る。だが、絵を諦めるわけではない。
示談金480万円を受け取った直己は、速やかに美大を退学し、すぐに通信制の芸術大学・美術科に編入した。
孤独な道のりだったが、夜ごと机に向かい、描き続けることに迷いはなかった。
「俺はまだ、絵を描ける。」
そう信じて走り抜けた二年間。
やがて直己は、見事に卒業証書を手にした。
――
その後、父・直江の経営するI T企業に入社。
初めは末席の一社員としてコードを書き、デザインを任される程度だったが、直己の美的感覚とひらめきはすぐに注目を集めた。
スマートフォン向けのアプリ。インターフェースのデザイン。ユーザーが手放せなくなる直感的な操作性。
さらに生活雑貨の新ブランドも立ち上げ、どれも市場でヒットを飛ばした。
「……直己、お前、よくやったな。」
父・直江は、普段厳しい表情を崩し、誇らしげに息子の肩を叩いた。
その瞬間、直己は心の奥でそっとつぶやいた。
――ありがとう、詩水。
君の言葉がなかったら、俺は今ここにいなかった。
夕焼けに染まるオフィスの窓の外に、伊賀の田んぼと、タンポポを摘む少女の姿がふと重なる。
直己の胸は、未来への鼓動でいっぱいだった。
――
11月23日、勤労感謝の日。
過去木詩水(16)は、朝の光に包まれながら、自分のスマホを開いた。
――「あたし、今日で16歳になりました。もう結婚できる歳になりました♡」
小さなハートマークを添えて送信したそのメールは、かつて田んぼの隅でタンポポを集めていたあの日の記憶を、そのまま胸に詰め込んだようだった。
受信した堂上直己(23)は、画面を見つめながら微笑む。
「……もう16歳か。早いな。」
ふと、知人の一人に打ち明けることを思い立った。
「ねえ、俺、16歳の彼女がいるって言ったら、せせら笑われるかな?」
返事はすぐに返ってきた。
「いやいや、せせら笑うどころか、可愛い彼女がいていいなぁって羨ましがるよ。」
その言葉に直己は胸がぽかぽかと温まった。
――よかった。誰も変に思わないんだ。
もう田んぼで出会った少女ではなく、成長した16歳の詩水。
それでも、彼の心の中では、あの日のタンポポの笑顔が生きていた。
直己は思わず返信を打った。
――「誕生日おめでとう、詩水。君の笑顔が、いつも僕を元気にしてくれるよ。」
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に小さな幸福が広がった。
23歳の青年と16歳の少女――年齢差はあっても、二人の絆は変わらず、未来へと続いているのだと実感した。
――
翌年12月1日、初冬の夜、堂上直己(25)のお誕生日。
パン屋の小さな厨房には、粉と甘い酵母の香りが立ち込めていた。
過去木詩水(17)は、白い三角巾をつけて、必死に生地をこねていた。
「直己さんの誕生日だから……いっぱい作って、喜んでほしいの。」
小麦粉で真っ白になった指先も、膨らんだオーブンの窓をのぞき込む顔も、真剣そのものだった。
だが、時計の針は0時を回ってしまう。
もう12月2日になってしまった。
厨房にもどこにも直己の姿はない。
「どうして……来てくれないの……?」
ぽろぽろと涙がこぼれ、熱いパンの香りと混じって曇っていく。
「お祝いしたかったのに……」
そのころ、堂上直己は、自宅で詩水の泣き声混じりの電話を受けていた。
「えっ……そんな話、初めて聞いた!」
驚きと同時に胸を締めつけられ、すぐに車のキーを掴んだ。
「今すぐ行く! 店の名前と住所を教えて!」
真夜中の街を駆け抜け、地図アプリを頼りにようやく辿り着いたいかりパン屋。
ガラス越しに明かりが洩れ、誰かが中にいるのが見えた。
ガラガラと扉を開けた瞬間、バターと焼き立てのパンの甘い香りが押し寄せる。
粉だらけのエプロン姿で立ち尽くす詩水が、涙に濡れた瞳でこちらを見上げた。
直己は言葉よりも先に、駆け寄ってその小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「……ごめん、気づかなくて。こんなに頑張ってくれてたのに……」
詩水の肩が震え、胸に顔を埋めた。
「……やっと来てくれた……ずっと待ってたのに……」
厨房には、ちょい冷めてはいるが、まだ温かいパンが並んでいた。
それは17歳の少女が、愛しい人を想って焼いた、世界で一番純粋な誕生日プレゼントだった。
――
堂上直己(25)は、真夜中のパン屋で抱きしめた詩水(17)の小さな体から伝わる震えに、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じていた。
「……ずっと待ってくれていたんだな。」
店内の明かりが二人を優しく照らす中、直己はある決意を胸にした。
――今日は、詩水と一緒に一夜を過ごそう。
焼き立てのパンをふたりで食べ終え、きちんと後片付けを済ませた直己は、そっと車の鍵を取り出した。
「じゃあ、車にどうぞ。」
しかし、詩水は少し顔を赤くして目をそらし、言った。
「あたし……その……生理でして、その、う……」
直己は一瞬、言葉に詰まる。
でも次の瞬間、詩水がにこっと笑いながら続けた。
「でも、大丈夫! 携帯ゲーム、3DSやSwitch Liteも持ってるから、そのゲームを一緒にしましょう♡」
「俺のアパートくるか?」
突然の直己の申し出に戸惑いを隠せない詩水。
「え?あの、そのう、あたし、戸惑います。ほんま生理中だし、ゲームだけでもいい、と、いうより、そのう、まだ彼女とか恋人同士とか、そのう、考えてなかったというか……」
「まあな、確かに」
直己はほっと胸を撫で下ろし、自然に笑顔になる。
「うん、そうしよう。じゃあ、楽しもうな。」
小さな車内で、二人はゲーム画面に集中しながらも、時折笑い声を交わす。
肩を並べ、画面を見つめるだけでも、夜の静けさの中で心は温かく満たされていく。
――愛しい少女との夜は、決して大げさなものではなく、ただ車中で、少し肌寒いが、純粋に笑い合う時間で満たされていた。
直己の胸に、改めて誓いが刻まれる。
――この子の笑顔を、ずっと守ろう。
午前3時を過ぎ、冷たい夜風が車の外を吹き抜ける。
堂上直己(25)と過去木詩水(17)は、さっきまでの笑い声が嘘のように静まり、体の奥までゾクゾクと寒さを感じていた。
詩水は小さく肩を震わせながら、声を震わせて口を開いた。
「あのね……あたし、もう母に“今夜はお仕事ざんまい”だと言ってありますから、その、貴方のアパートに行きたいです。」
直己は思わず目を見開く。
詩水はさらに、少し顔を赤らめながら言葉を続ける。
「汚さないように気をつけますから……お風呂に入りたいんです。」
直己の胸は一瞬、複雑な感情で揺れた。
戸惑いと責任感、そして詩水を守りたい気持ちが入り混じる。
「……はい、承知しました。」
エンジンをかけ、車を発進させると、夜の道路は静かに伸びていた。
街灯に照らされる白線が、まるで二人の心拍のようにリズミカルに流れる。
車内の空気は、外気とは違う意味でひんやりとしていた。
直己はハンドルを握りしめ、詩水は小さく手を膝の上で組む。
互いに意識しながらも、言葉は必要ない――ただ、車が静かに夜道を滑るだけだった。
胸の奥で、二人のドキドキが夜の静寂に混ざり合う。
この先の時間がどんなに短くても、今、この瞬間は確かに二人だけのものだった。
堂上直己(25)と過去木詩水(17)は、深夜のアパートに到着した。
部屋に入ると、薄暗い中にもほのかな暖かさがあった。
――エアコンは直己がスマホであらかじめオンにしていたらしい。
室内はちょうど心地よい温度に保たれ、寒さでこわばった体をそっと包み込むようだった。
「直己さん……あったかい……」
詩水は微笑みながらも、少しほっとした表情を浮かべた。
さらに、直己の指示に従いお風呂場に向かうと、そこにはすでに湯船が満たされ、湯気が立ち上る。
「わぁ……もう沸いてる……」
詩水は小さく声を漏らし、そっと湯船に体を沈めた。
肩まで浸かると、緊張していた体がゆっくりとほぐれていく。
長風呂を楽しむ彼女の背中には、柔らかな蒸気が漂っていた。
一方、直己はリビングで、自分の時間を静かに楽しんでいた。
マッサージ器に体を預け、心地よい圧力が筋肉をほぐす。
耳にはヘッドフォンを通してシューマンの穏やかな音楽が流れる。
「……こういう時間も、悪くないな」
直己は目を閉じ、深く息を吐いた。
長い旅路と騒がしい日々の疲れが、ゆっくりと溶けていく。
暗闇の中、部屋には湯気と音楽、そして二人だけの静かな時間が流れていた。
――この夜は、何も急ぐ必要のない、ただ心を休める時間だった。
お風呂から上がった過去木詩水(17)は、廊下を歩きながらリビングを覗いた。
すると、堂上直己(25)はマッサージチェアに身を預け、穏やかに眠っていた。
小さく息を整え、疲れを取ろうとしているのだろうか、その姿に思わず微笑む詩水。
「……かわいいなぁ」
そっと布団を持ってきて、眠る直己の体にかけてやる。
柔らかい毛布に包まれた彼の頬に、自然と小さなキスを落とす。
直己は気づかず、深い眠りの中で微かに笑ったような顔をしている。
詩水は静かにキッチンへ向かい、湯船の栓をひねってお風呂の湯を流した。
用具を探し出し、スポンジと洗剤で浴室を丁寧に洗い上げる。
湯気と水の匂いが消え、すっかり清潔になった浴室を見て、詩水は満足そうに小さく息をついた。
その後、目覚めた直己と詩水の二人はリビングで並んで座り、3DSを手にゲームを楽しむ。
操作に夢中になりながら、時折笑い声が小さく響き合う。
外の空が徐々に明るくなり、夜明けが近づくのを感じながら、二人だけの静かで穏やかな時間は続いた。
窓の向こうに差し込む朝の光が、二人の肩越しに少しずつ部屋を照らしていく。
――夜は終わり、でも、この夜の思い出は確かに二人の心に残った。
翌朝、まだ薄暗いアパートの中で、先に目を覚ました過去木詩水(17)は静かにベッドを抜け出した。
眠そうに伸びをしながらトイレを済ませ、戻ってきたところで、そっと堂上直己(25)を起こす。
「直己さん、朝ですよ……」
直己はゆっくりまぶたを開け、眠そうに伸びをしながらも、すぐに朝の準備に取りかかる。
詩水は、小さな袋に入れて持ってきてくれた使用済みナプキンを、直己の指示に従ってゴミ箱へ捨てた。
「ありがとう……助かる」
直己は軽く頷き、すぐにキッチンに向かい、朝風呂を沸かし始める。
湯気がゆっくりと立ち上り、浴室はすぐに心地よい温度になる。
「今日は、なんもせんといて」
直己が笑いながら詩水に言うと、詩水は少ししゅんとしたように肩を落とし、ソファに腰掛けてテレビを眺める。
画面には朝のニュースや天気予報が流れているが、詩水の目はふと窓の外に向き、朝の光と街の静けさを楽しんでいた。
直己は湯船に身を沈め、昨日の疲れをゆっくりとほぐす。
静かなアパートに、湯気と朝の光、そして小さな二人の生活のリズムが静かに流れていった。
詩水はその様子を見つめながら、心の中で微笑む。
――こうして、普通の日常が少しずつ積み重なっていくんだ、と。
朝の光がアパートの窓から差し込み、過去木詩水(17)はそっとスマホを手に取った。
「……よし、学校に電話しよう」
生理中で体調が優れないことを担任の先生に伝え、今日は休む旨を丁寧に伝えた。
「はい、ありがとうございます……」
少し安心した表情で電話を切ると、キッチンに向かい、直己(25)と一緒に食べるための即席の朝食を用意したかったが、直己に止められていたから、やめておいた。テーブルの椅子に座った。
やがて直己がお風呂から出てくる。髪をタオルで拭き、湯気を含んだ空気の中で、二人は並んで朝食を囲む。
詩水は少し照れながらも、笑顔で「学校は生理中だから休みました」と直己に報告した。
直己はそんな彼女を見つめ、ふと思いつく。
「……お着替え、いるか?」
小さめの自分のセーターとモコモコの暖かいショートパンツを手に取り、詩水にそっと差し出す。
「ありがとう……」
詩水は洗面所に入り、直己の服に着替えながら、ふわりと笑顔を見せる。
着替え終わった詩水の姿を見届けた直己は、乾燥機付きの洗濯機にさっと服をセットし、慣れた手つきで回し始めた。
「……これで、すぐに乾くな」
静かな朝のアパートに、湯気と食卓の香り、洗濯機の音が混ざる。
窓の外には冬の淡い光が差し込み、二人だけの穏やかな時間がゆっくりと流れていた。
洗ってもらった服にすっかり着替え直した過去木詩水(17)は、リビングで直己(25)を見上げながら、少し照れくさそうに口を開いた。
「直己さん……なんか、お礼がしたいなぁ」
直己は微笑む。
「ん? 何か作ってくれるのか?」
「うん、ちょっとあまりものがあれば、それで昼食を作りたいの♡」
直己は少し考えて、楽しそうに答えた。
「じゃあ……一緒に作ろうか。いや、やっぱり俺のアパートだから、俺が指示するな。あそこの皿取って、とか、これ微塵切りして、とか」
詩水は笑いながら、包丁を持つ手を少し震わせる。
「でも……お互い、包丁さばきは不得手だね」
二人はぎこちない手つきで材料を切ったり混ぜたりしながらも、笑い声が絶えなかった。
鍋に牛乳と野菜、鶏肉を入れ、じっくり煮込む。
やがてシチューが出来上がると、二人は食卓に並べ、ふうふうと湯気を立てながら口に運んだ。
「……うん、美味しい♡」
「そうだな、なんとか形になったな」
ぎこちなさも、笑いも、全部ひっくるめて、二人にとってかけがえのない昼食になった。
静かなアパートに、シチューの香りと笑い声が混ざり合い、冬の午後のあたたかさを満たしていた。
昼食を終えた過去木詩水(17)は、そろそろアルバイトの時間だと時計を見て立ち上がった。
「じゃあ、アルバイト行ってから自宅に帰りますね」
と、少し寂しげに言う詩水に、堂上直己(25)はすぐに反応する。
「送ろうか?」
しかし詩水は首を振り、にっこりと笑った。
「大丈夫です♡」
直己は少し残念そうに笑い、見送る体勢を整える。
詩水は帰り際、思い切って直己に近づき、軽くハグをした。
その瞬間、直己は思わず目を見開く。
「あっ……!」
ふと、詩水のおでこが直己の口元に触れた。
思わず直己は微かに「ちゅっ」としてしまい、二人とも一瞬驚いて顔を見合わせる。
「……ありがとう、直己さん」
「う、うん、気をつけてな」
照れくさい空気の中、詩水は笑顔で手を振り、アルバイト先へ向かって歩き出す。
直己はその背中を見送りながら、胸の奥でほのかな温かさを感じていた。
――小さなハグと、思わぬ「ちゅっ」が、二人の距離をさらに縮めた冬の午後だった。
