拙ブログで何回か取り上げた鑑真和尚の行路

                       薩摩国・秋目(妻)浦(坊津中心部から北にある)から太宰府まで

                   、どんな手段で、どこを通って

                      たどり着いたのか?   

  

                   『唐大和上東征伝』によると、鑑真が秋目浦に漂着したのは

                        天平勝宝五年(753)12月20日のこと  

                        その鑑真が太宰府に辿りついたのは同月26日である、と同書は記す。

                      つまり九州南部の小さな集落から北九州まで6日間でついていることになる。

 

                   ほぼ定説になっているのは陸路ではなく海路。

                 つまり九州西岸を北上したであろうこと。

                  20日に漂着して、すぐ翌日に出発したとして6日間。

               しかし、そんなことがありうるか???

                   仮にもう一日滞在し、22日に船に乗ったとすると5日間である。

                   当時の秋目浦に船があったのか?取り調べはなかったのか?天気はどうだった?

 

           中村明蔵『鑑真幻影』は「鑑真一行は秋妻浦に漂着後、すぐに小型船に乗りかえ、八代海・有明海

を北上し、大宰府への最短コースを選んで上陸した」と分析する。

          ただし、その上陸地は喧伝されている肥前国の鹿瀬ではなく、筑後川を遡上したある土地であろうと

推測している。同書では以下の二つの可能性を指摘

    1.有明海から筑後川に入り筑後国府(現、福岡県久留米市)付近に上陸

2.筑後川河口より南、現在の矢部川河口付近から川筋に入り、

      陸路を瀬高町(福岡県山門郡)・羽犬塚(筑後市)・府中(久留米市)・

山家(筑紫町)などを経由して大宰府に至る道筋

 

     別の可能性として、鹿瀬に上陸して陸路(古代の直道)を大宰府に向かったことは考えられないのか?

                    いずれにしても、八代海、有明海を北上し、どこかの地に上陸し、そこから陸路で太宰府に向かったことになる。

 

     鑑真和上が来日し、唐招提寺を創建するまでを表現した絵巻

鑑真が日本に向かう船に乗っている図?まさか東シナ海を渡るのにこんな小さな船はありえないだろうなあ