<2014年に桜島フェリーで映す>

 

「 三年ばかり前に病気をした。

  乳癌という辛気くさい病名だったこともあり、日頃は極楽とんぼの私が柄にもなく

 入院中のベッドで来し方行く末に思いをめぐらすこともをあった。万一再発して、長く

 生きられないと判ったら鹿児島へ帰りたい。」

  昔住んでいた、城山のならびにある上之平の、高い生垣の上に建っていたあの家の庭から桜島を眺めたい。

 知らない人が住んでいるに違いないが、何とかしてあのお庭先に入れて頂いて、朝夕眺めていた煙を吐く

 あのお山をみたかった。うなぎをとって遊んだり、父の釣りのお供をした甲突川や、天保山海水浴場を見たかった。

 山下小学校の校門をくぐり、天文館を歩きたかった。友達にも会いたかった。 

  帰るといっても、鹿児島は故郷ではない。保険会社の支店長をしていた父について転勤し、小学校五年

 六年の二年を過ごした土地に過ぎないのである。しかし、少女期の入口にさいかかった時期を過ごしたせいか、

 どの土地よりも印象が深く、故郷の山や河を持たない東京生まれの私にとって、鹿児島は懐かしい「故郷もどき」

 なのであろう。」

 

 かの女は退院し、鹿児島が随所にでてくる『父の詫び状』を書きおえ、二泊三日の鹿児島の旅を実行する。

 

 かの女が台湾での飛行機事故で亡くなったことは知っていたが、乳癌を患っていたことは知らなかった(昨日、ピンクリボンをかけていたモンチッチが教えてくれたのかも)

 

 この文章の冒頭に出てくる城山、甲突川、天保山、天文館は鹿児島市であり、鹿屋出身の私がした親しんだのは

高校時代である。桜島は花岡町にある城山公園から遠くに眺めていたものだったが、高校時代は寮と自宅を週末に往復するときの垂水-鹿児島間の定期船から刻々と変わる姿をみたものだった。

 

 この短編が掲載されたのは昭和54年の「ミセス」5月号で、私は『ふるさと文学館 第五三巻 鹿児島』で読んだ。

 

作品の最後の文章

「 あれも無くなっている、これも無かったーー無いものねだりのわが鹿児島感傷旅行の中で、結局変わらないものは、

人。そして生きて火を吐く桜島であった。

 帰りたい気持ちと、期待を裏切られるのがこわくてためらう気持を、何十年も温め続け、高い崖から飛び降りる

ような気持でたずねた鹿児島は、やはりなつかしいところであった。

 心に残る思い出の地は、訪ねるもよし、遠くにありて思うもよしなのである。ただ、不思議なことに、買ってくるとすぐ、この目で見てきたばかりの現在の景色はまたたく間に色あせて、いつの間にか昔の、記憶の中の羊羹色の写真が

再びとってかわることである。思い出とはなんと強情っぱりなものであろうか。