<近所のお寺の境内にて>

 

昨日、取り上げた『鹿児島のキリシタン』。その中の記述について、ザビエルが山口から府内(大分)に向かう途中、日出町の湊を利用したことについての記載がない、とのコメントを付した。ザビエルが豊前から豊後に向かった時には陸路を利用したのである。

 

この点についてはこんな説明あり。鹿鳴越道|スポットを探す|ひじまち観光情報公式サイト (hijinavi.com)

波穏やかな別府湾に面する豊岡の背後には、大空に向けて突き出すようにそびえる鹿鳴越(かなごえ)の険しい山々が連なります。豊前と豊後を往来する道は、古くから鹿鳴越の山々を越えるのが通例であったといわれます。
 東鹿鳴越を越える道は通称「東鹿鳴越道」「豊前道」と呼ばれ、日出藩主も利用していたことから、地元では「殿様道」と呼ばれてきました。
 一方の西鹿鳴越を越える道は通称「西鹿鳴越道」「宇佐道」と呼ばれた。西鹿鳴越道は、1551年9月にキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが大友宗麟の招きを受け、山口より大分に向かう途中陸路を歩いたといわれている峠道でもあります。」

  <いつもの十月桜>

 

 

 今日のブログで取り上げるのは、私が見逃していた点である。昨日もアップしたが、この地図をよくみると、ザビエルが乗った船は府内から出航した後、日向の「ミナト」(今のどこ該当するかは不明)により、その後、種子島の西之表に寄港したことになっている。

 著者は。ザビエルは帰路、種子島には寄港していないという説を退けながら、次のように説明している。

 

 

 

1551年豊後からマラッカへのザビエルの航路と、1552年、マラッカから豊後へのアルカソヴァの航海、この両者の船の船長は同一人物、ドゥアウルテ・ダ・ガマである。だから、船が同じ航路をたどったことは当然である。このドゥアウルテ・ダ・ガマは、アルカゾヴァにザビエルの種子島寄港の事実を語った人物である。/ザビエルがついた港は、島の領主についての情報にしたがって明らかになると思う。種子島時堯は西之表に居住したいた。ザビエルが種子島に着いたのは1551年11月の終り頃であった。」

 

このサイトにはこんな記事がある。53 鉄砲国産、南島の誇り/種子島 西之表市 (nishinoomote.lg.jp)

西町の八坂神社境内に「慈遠寺」の手水鉢があります。明治の廃仏毀釈で壊された寺の遺物です。慈遠寺の宿坊には天文12(1543)年の鉄砲伝来の際、明国人、琉球人、南蛮人( ポルトガル人)ら百余人が半年近く過ごしました。キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルの日本伝道最後の滞在地とも伝えられます。」