ザビエルの日本での足跡調査が暗礁に乗り上げていると書いたのは   日のブログ。

 

今日はこれまで確認した資料をまとめておくことにする。

 

1949年初版の岩波文庫『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻』では、鹿児島から市来まで陸路でいき、そこから船で平戸に向かい、平戸からは陸路で博多から門司、山口を経て宮島まで陸路でいき、そこから瀬戸内海航路を使って堺に入っている。

京都からの帰りは同じ経路になっているかどうかは、これでは分からない。

また山口から豊後の府中に向かう時は、山口から直接に府中(大分)に船で向かったとする図になっている。

 

 

 

この資料によるとザビエルは京都に向かう時、上の図とは違い宮島ではなく岩国から船を利用していることになる。また、山口から府内へは五日間かかったというだけで、どういうルートだったかは書いてない。

地図で見るザビエルの足跡・教会 | AMOR (webmagazin-amor.jp)より

 

この資料によると、岩国から瀬戸内海航路を使っていること、そして、山口から府内に行くに際しては船で日出町経由して向かったということになる。しかし、鹿児島から平戸に向かう時市来ではなく京泊から船を利用し、平戸から博多に行くときは陸路ではく、海路となっている。

キリシタンとは - コトバンク (kotobank.jp)

 

 

1994年初版の『山川 日本史総合図録』では、京都からの一度平戸に戻る時のルートが示せゐてあることに独自性があるが、山口から府内に向かう時には日出経由にはなっていない図になっている。、

 

最新の『日本歴史地図』(メイツ出版、2021年)では、鹿児島から平戸に向かう時は鹿児島湾をまわり市来に寄ってからになっているし、平戸から京都に向かう時は博多までは陸路とはなっていない。また、何と府内に向かったのは小倉からになっている。

 

という具合に統一の正確な足跡確認ができていないのである。ザビエル一行は直接に鹿児島に入っていることが確か(でも、*のような話もある)だが、以下のルートはまだまだ未定である。

 

1.鹿児島→平戸(市来湊か京泊港を使ったのかどうか)

2.平戸→博多(陸路利用説が有力ではあるが・・・)

3.山口→京都(岩国か宮島のどちらから船を利用したのか)

4.山口→府内(日出から船を利用したのかどうか・・・) この点については、日出を明示していない資料の方が多い。これはなぜか?

 

戦国島津史伝 - 第二十二話 ザビエル来訪記 (syosetu.com)

坊津に上陸した男の名をフランシスコ・ザビエルと言った。

 キリスト教の一教派であるカトリック教会の司祭である。

 この時四十四歳。一人の日本人との出会いによって南蛮の教えを日ノ本に広げようという信念に燃えていた。

 ザビエルは

「この国の王に会わせて欲しい」

 と坊津の奉行に願った。

「いかなる用向きか」

 奉行衆は真意を図りかねたが、ひとまずその報せは貴久の元に届いた。

「如何いたしますか」

「南蛮の者とな」

「何やら南蛮の教えを広める許しを得たいとのこと」