大正十一年当時枢密院顧問官であった九鬼隆一が、学制頒布の頃を書いている。題目は「海外留学生の引上げ」である。これが実に面白い。

 

 最初に出てくるのは各藩が送った海外留学生のことではなく、明治になって日本にきた外国人のこと。

 

 当時、医学教育を中心としていた東校にきたドイツ人の医師について、その給料を減じたという話である。彼はその時東校の「副長心得」だった。年は22,3歳だったいう。そのくだりを以下に引用しておく(新字体に修正)。

 

「ことにドイツの教員達の我儘は言語道断で、無断欠勤、あるいは二時間も遅刻するのが珍しくないという有様。しかも誰一人之を抑えることができない。そこで予は、その中で一番道楽をして怠けてばかりたドクトル・シモンというのを先ずとっちめてやろうと思って、六十日の間、その教師の遅刻、早退、欠勤及びその他種々なる落度を一々手帳に控えて置いて、ちょうど月給を渡す日になって、ドクトル・シモンを副長室に呼んで、司馬了海氏を通弁そいて、六十日間の落度を一つ一つ数えあげた。その上で月俸一ヶ月(三百円)分を罰俸として差引くということを宣告したが、この時ばかりはよほど困ったらしかった。しかし、予の言う事が一々尤もなので一言の返答もなく、黙ってその申渡状に署名した。」

 

 後日談がまた面白いのだが、省略する。

 

 さて、各藩が送った海外留学生を引き上げるという話。それは彼が書いた次の建白書が起点となる。

 

 「各藩の留学生の如き、勉強も何もしないで居る者共を外国へやっておくのは、我国の恥辱になる。一日も早く之をやめて新たに、大学の法、理、文、医の各科から正則生の優れた者を選抜して留学させるがよい。」

 

 しかし、実際に彼が留学生を引き上げるためにパリに行った時に留学生におくった書状には「当時各藩の留学生というも、そのなかの八割二、三分まで薩、長、土、肥の四藩が占めていて、他の各藩はわずかにそのなかの一割七、八分しかいなかった。教育は四民平等にしなければならぬのに、此四藩ばかりが国費を以て留学の恩典に浴しているのは宜しくない」という内容だった。

 

 引上げに当初強力に反対していた中江兆民はこれを読み、賛成にまわり、留学生の説得にあたった、という。

 

<アマゾンから借用>いつか読んでみることに

 九鬼は1852年、今の兵庫県三田市にうまれた旧綾部藩士だったいう。四男に哲学者の九鬼周造がいる。