沖縄出身の父が尊敬していた親戚の嶺井強衛が佐敷小学校、中学校の校歌を作成していたことは、本ブログで書いた。ただ、その内容を紹介したことがないので、ここに記しておきたい。

 

 佐敷小学校のHP(に学校紹介 | 佐敷小学校 | 南城市教育委員会 | NANJO CITY Board of Education)ある

 

1. 佐敷平野の真ん中に
 高くそびえる佐敷校
 遠くかおるよそのほまれ
 若きひとみを輝かし
 学ぶ我らはうれしいな
 ( 伝 統 )

2. 小鳥のさえずる月代の
お宮の上に森かげに
朝日はきらきら光ってる
我らの希望も高らかに
みんな元気で学ぼうよ
( 希 望 )

3. しゅくなの山はおとなしく
 馬天の波はよくわらう
 我らも明るくすくすくと
 みんなそろって手をとって
 心と体をきたえよう
 ( 平 和 )

 

 ここに出てくる佐敷平野、月代、馬天の海はグーグルアースで確認できるが、残念ながら「宿納(しゅく)の山」は不明。

<佐敷平野>

 

<月代宮>

 

<左が馬天で、右が知念、そして久高島>

 <久高島にはまだ行ったことがない。ぜひ、行きたい>

 

 父が「よく真っ裸で、海の遊びに行っては、叱られていた」と話していた海に佐敷は恵まれているようだ。

 

 長くなるが、嶺井強衛についての紹介があるので、ここに引用しておきたい。

 

中村透

「音楽ホール・芸術・地域の動態創造に関する研究 ―佐敷 町・シュガーホールを題材として―( 第1章)」

Nakamura_2008-3.pdf (u-ryukyu.ac.jp)

 

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佐敷中学校の校歌を作詞 した嶺井強衛 (1888-1967)は、新里出身で沖縄師範学校、 日本大学高等師範部 を卒業 して 1913年 から 1915年の間佐敷尋常高等小学校教員を勤め、戦後は知念高等学校の校長 として職 を終えた人物である。 嶺井は大正初期 に佐敷で在任 した当時の佐敷の教育事情につい て、次のように回顧 している。

 

 わが佐敷村は旧王朝時代の天領地 (おかけじま)で村の首脳者を始め村民皆が 自覚 とプライ ドを、心の奥にもち、教育、政治の運営はもちろん、青年会、婦人 会、社会教育等の活躍 目覚ましく、その優秀なる成績を次々とあげ、沖縄県知事、 部長、教育会な どから表彰 されているのを覚えている。私が在任中でも、琉球音 楽の大家、金武良仁先生の演奏会が盛大に催 されたことや、東本願寺の田原法水 師、田原法馨師、西本願寺の管深明師の講演会 もたびたびあった。また当時の村 長平良亀助 さんや、村医の宮城松青先生方 も、後輩の指導に専念せ られ、就職転 勤等、つねに誠意 を傾倒 して下 さったことも感謝 しているしだいである (嶺井 1963:16)