本棚の整理をしていたらこの本が出てきた。父が亡くなった後実家の本棚にあったものをもらってきたものと思う。発行は1969年11月9日となっている。

 書名は「佐敷村の教育」だが、佐敷小学校の話がほぼ出てこないので、メインは副題にあるように「佐敷中学校移転記念と佐敷中学校創立20周年記念」であう。

 沖縄の佐敷出身の父は全然の佐敷尋常小学校・高等小学校を卒業後、沖縄師範学校で学び、戦争後に鹿児島の小学校教師をしていたので、戦後の1948年4月1日に、アメリカ統治下で創立された佐敷中学校は、もちろん、卒業はしていない。

 

 本書の最初の口絵には同中学校の校旗の写真と校歌が掲載されている。校歌は現在の南城市立佐敷中学校HPにも掲載されている。実は、この校歌の作詞者である「嶺井強衛」は、わが父が一番尊敬していた親戚縁者であった。「佐敷区」の教育委員でもあった強衛については、後日、ブログで取り上げることとするが、彼は佐敷小学校の校歌も作詞している。

 

 

 佐敷中学校発足当時の写真も掲載されている。右上の写真の奥に見える校舎は、どうやら米軍が残した「コンセット」(かまぼこ型兵舎)を村民の人手で運んできたもののようである。

 左の茅葺校舎は、これの村民が協力して作ったもののようである。

 

 巻末にはこの新校舎建設に際して寄付金を出してくれた人々の名前が書いてある。沖縄からの移民が多かったブラジルからの寄付者も多い。

 沖縄在住者・本土在住者の寄付金は「ドル」で、ブラジルは「クルゼイロ」となっている。わが祖父の名前も発見できた。

 

 研究面で興味深いのは、本土復帰前の沖縄の教育委員会制度のいったんが分かることである。かつて調査し、それをまとめたことがあったが、肉づける資料の一つにしてみたい。

 当時の佐敷村には「佐敷区教育委員会」があり教育委員は5名でそのうち一名が教育委員長。しかし、教育長はいない。

教育長が登場するのは「南部連合教育区教育長」である。また、新校舎建築にあたって、文教部や中央教育委員会の理解も得たとあるので、当時の沖縄には「中央―連合教育区ー区」と三段階の教育委員会があったことが分かる。詳しくは、またブログで紹介したい。

 この独自の教育委員会制度は本土復帰とともに本土並みに変えられることとなる。