9月13日に岩手、青森の旅にでかけ、初日に盛岡市の原敬記念館を訪れたことは、過日のブログに書いた。

<記念館の庭にあった梨の木>

 そこで知ったのが、藩主南部氏の名にちなんで南部藩ともいわれる盛岡藩の藩校・作人館に原敬が通っていたことを知った。調べてみると、新渡戸稲造もそこで学んでいる。

 

 作人館の前身は「明義堂」といっていたが、1862年に作人館となったとのこと。この藩校名が「作人」(人を作る」となっているのはかなり珍しい。どうして、そう命名したのだろうか。

https://f.hatena.ne.jp/msystem/20160726171951

 

 

 薩摩藩が江戸後期に「造士館」を設置したが、これも「士を造る」という発想であり、「作人館」に通じるものがある。

 

 ところで、作人明治時代になり、仁王小学校となったとの説明がある。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000130874

 

 

 藩校が明治以降、小学校に引きづがれるというのは珍しいケースではないだろうか。

 例えば、米沢興譲館高校、時習館高校、修猷館高校、伝習館高校というように、今の高校、戦前でいえが中学校(旧制)に引き継がれるのが多かったように思うからである。

 

 実際に原敬で、そこでどのような教育内容を学んだかを調べてみる必要があるが、今の盛岡市立仁王小学校の、原敬の写真が掲載されているHPをみると、作人館跡地に小学校がつくられたとあるから、教育内容面や教育制度的な面(初等教育科、中等教育かという位置づけ)で作人館を引き継いだとは言えないのかも知れない。

 

仁王小学校HP

http://academic4.plala.or.jp/niou/R2%20gakkousyoukai.pdf