グルーバリゼーションやグローバリズムが論点となってさまざま論争が繰り広げられた頃(1980年代以降のこと)、もはや「ネイション・ステイツ(国民国家)」は古くなり、その存在が危うくなったなどと言われてきた。

 その後押しをしたのが、EUの拡大であった。

 

 だがリーマンショック以来、少し様相がことなり、その存在価値というか枠組みが揺るぎないことが再発見されるようになってきた。その傾向は、アメリカでの「アメリカ・ファースト」を唱えるトランプ政権発足が世界各国でのそれぞれのネーション・ステイトを前面に掲げる政治勢力が強くなってきた。

 そしてついに、この1月にはブレグジットが実現した。ちょうど、この時期から、まさに新型コロナウィルスのグローバル化が起きた。

 これに対し、世界はグローバル的観点や方法で立ちむかうのではなく、自国の国民(nation)を抱え込んで保護するという方法をとるようになっている。

 それぞれのステイトはそれぞれのネイションを区分けし、自らのネイションへの対応をステイトの権限・権力をつかって、対応するようになった。

 目に見えないウィルスのグローバル化が、目に見える形でネイション・ステイトの存在を明らかにしている。国境をほぼ取っ払ったEUでは国境検問が復活している。

 これを歴史の逆説とみるか、あらたな段階におけるグローバル化とネイション・ステイト間の葛藤とみるか。

 

 一橋大学の平子氏が提起してきたネイション、ナショナリズム論やウォーラ―シュタインの世界システム論などを含め、改めて、nation stateを「国民国家」と訳した方がいいのか、など考えてみたい。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/イマニュエル・ウォーラーステイン