私がカトリックになって最も良かったと思っていることの一つは、信心業、特にロザリオの信心を知ったことです。
プロテスタントの時にも祈りの大切さは教えられていましたが、一般の信徒が毎日30分祈れるかと言えば、まず祈れないのではないでしょうか。私も出来ませんでした。霊的に高揚している時には自分の言葉で自由に祈れますが、いつもそうである訳ではありません。
ロザリオのように形が決まった祈りであれば、その時々の状態にあまり左右されることなく、毎日祈ることが出来ます。毎日聖書を読むことが大切であるのと同様に、或いはそれ以上に、毎日祈ることの大切さを実感しております。
ロザリオは落ち着いたテンポで祈るべきもので、高速道路をぶっ飛ばすようにアヴェ・マリアの祈りを繰り返すようでは、祈りというより呪文のようなものになってしまいます。そのようなロザリオでは退屈であっても無理なからぬことです。
マリア様は私たちにキリストを与え、また、私たちをキリストに近づけて下さいます。これが受肉の神秘であり、ロザリオの祈りとはこの受肉の神秘に触れ、それを味わう祈りだと私は思っております。聖霊、すなわちイエス様の息を吹きかけられる(ヨハネの福音書20.22-23参照。因みに、この節はヨハネの福音書における聖霊降臨とも言われております)ために、私たちはもっともっとイエス様に近づかなければならないのです。