ああ、イエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より護り給え。
また、すべての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を、天国に導き給え。
 

  

 

 

 

このファティマの祈りは、私たち罪人が毎日唱えるに相応しい祈りです。聖母マリアはファティマでの御公現に際し、この祈りをロザリオを一連唱える毎に祈るよう、私たちに命じられました(勧められたのではありません)。
  

 

しかし、私には、この祈りを私たちにお与えになられた聖母ご自身が、休むことなくこの祈りを主のみ前でお捧げになられているように思われてなりません。
  

 

聖母マリアはそのご生涯において、大罪は勿論、一つの小罪も犯されなかったお方であることを、カトリック信者は信じております。そのお方がファティマの祈りを祈ることはおかしいのでなないか、と思われる方がいても不思議ではありません。
  

 

その疑問に対する答えを、聖アルフォンソの名著「聖母マリアの栄光」の中に見出しましたので、少し長くなりますが引用させていただきます。
 
 

  

 

 

改心を望む罪人の母であるマリアは、彼らに対して、母親の同情を禁じることができない。そして、そのあわれな子どもたちの不幸を、自分の不幸のようにさえお感じになるのである。福音書のなかにしるされているカアナンの女は、悪魔に苦しめられているむすめを助けてもらうため、イエズスの御もとに来て、次のように言った、「主よ、ダヴィドの子よ、私をおあわれみください。私のむすめが、悪魔に、たいへん苦しめられております」。実際に悪魔に苦しめられていたのはだれだったのだろう。むすめであって、母ではなかった。それゆえ、この母親は、「主よ、私のむすめをおあわれみください」と言うべきで、「私をおあわれみください」と言うべきではないように思われるのである。それなのに、彼女は「私をおあわれみください」と言った。しかも、これは正しいのである。なぜなら、母親は、その子どもの悩みを、自分自身の悩みのように感じるものだからである。リシャール・ド・サン・ローランが言うように、マリアもまた、ご自分によりたのむ罪人のため、神にとりなすとき、このように祈るのである、「マリアは、罪ある霊魂のために、『我をあわれみ給え』と叫ぶのである」。言葉をかえて言うならば、「我がやさしき主よ、大罪の状態にあるこのあわれな霊魂は、私のむすめです。この霊魂をおあわれみください。そして、特に、その母である私をおあわれみください」と祈るのである。
 
 
  

 

マリア様のこの心の、せめて幾ばくかでも、私たちに与えられますように。