私以外のすべての人は、私に対して、キリストとして立ち現れ得る。殊に、貧しい者、病める者、助けを必要とする者として、私の前に立ち現れる。マタイによる福音書25章はそのことを教えております。しかし、この世の如何なる者にもまさって、胎児として、キリストは私たちの前に立ち現れるのではないでしょうか。胎児は全くの無所有、無力、無防備です。罪無き胎児を殺すこと、それはキリストを十字架につけることではないでしょうか。十字架のキリストは、全くの無罪、無所有、無力、無防備でした。 

 

 中絶は殺人であります。紛う方無き殺人、全く正当化され得ない殺人です。この殺人罪が、今や世界の多くの国において合法化されております。中絶が初めて合法化されたのは、旧ソ連においてでありました。ファティマの聖母はロシアの誤謬が世界中に弘まると予言されましたが、まさにその通りになりました。今やカトリックの国と言われている国々においてさえ、多くの人々が中絶を罪として認めておりません。日本においても、年間で推計100万人の胎児の命が絶たれております。 

 



 キリストは神の言葉です。「言葉」と訳されているこの語は、原語ではロゴスであり、ロゴスとは世界の存立根拠、秩序や平和の源であります。中絶とは、このロゴスに対する、言うなれば直接攻撃であります。中絶がまさにそのような罪であるならば、ロシアとウクライナの紛争、イスラエルとガザの紛争、新型コロナ・パンデミック、頻発する大地震、現代の様々な難病奇病、メンタル疾患、発達障害や引きこもりの著しい増加、これらの諸問題が中絶と無関係であると言い得るでしょうか。

中絶が罪であることがはっきり認められ、悪として退けられない限り、世界平和など言うも愚かであると私は思います。