なみ平です。
ドキュメンタリー映画「新渡戸の夢~学ぶことは生きる証~」は今月末に完成。
これからは観客動員にむけての宣伝だ。
そして映画館との交渉も大事。
「これから」が大事。
支援して下さった方々、友の希望を実現するステージだ。
誰かが言っていた。
あなたの「これから」があなたの「これまで」を決める。
「これから」の生き方が、「これまで」の意味を決めると。今が大事だ。 黙想
黙想
なみ平は、10代の頃のカントリー歌手を目指していた頃のテーラー・スイフトが好きだ。
タイトルは「15歳」。
孫のたらちゃんは、3歳6か月。
今日は、寒い中、野菜ジュレを買いにTOMOSへ。
外に出れば、真冬でも汗をかくほど手をがっちり握る。安全第一、健康第一
「道では手をつなぐけど、店に入ったらつながないでいいの、、、」
学んでいるね。毎日が学習だ。
誰かが言っていた。
教育の本質は自己創出力に火をつけること。
たらちゃんは、自然に学び、自らを変えている。
誰かが言っていた。
Educationは、それぞれの持ち味を引き出すこと。そもそも「教育」という日本語訳は、
明治の初期の縦社会の中で作られたそうだ。
上から目線の翻訳言葉だ。誤訳かもしれない。
たらちゃんは、自ら学び、自ら変わり、ママ、パパを驚かせている。ママやパパは、たらちゃんの自己創出力に火をつける演出家だ。
なみ平は、3年前から新渡戸稲造の映画のために、明治の時代に留学している。
留学中、新渡戸が創設した貧しくて学校に通えない青少年のための学校、「遠友夜学校」に出会った。
先生は友達。授業料も年齢制限も無し
画期的な学校だ。
そして、現代もそのような学校が求められ実際に存在することを知った。
そこに集う人は武士。
「あの人、武士だな」
そんな出会いは、自分を変えていく。
教育とは自然に変わっていくことか。
なみ平の学びも続く。共に学ぶ。
新渡戸は言った。
「本当の教育とは、何もかも忘れたすえに、しかも自分の言うことは誰からいつ習ったことか分からない、すっかり自分自身のものになりきった、パーソナル・コンヴィクション(個人的確信)になった、それが本当の教育であると」(内観外望)
誰が言ったかなどは、重要でない。
自分のものにすることが大切。
知識は重なり合い、忘れるもの。
ジャーナリスト、歴史研究家だったらそうはいきませんが。
映画のサブタイトルは「学ぶことは生きる証」とした。
生物学的に言えば、生きることは学ぶことなのかもしれない。
家の窓から見えるイチョウの木も雀も、生きるために学んでいる。たらちゃんは、60兆個の細胞をフルに働かせ、成長している。ほんの小さな出来が、たらちゃんの細胞を元気にさせ、「その気」にさせ学んでいくのだろう。
その気が大事だ。
誰かが言っていた。
人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持で日々を送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わったと。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく幼稚園の砂場に埋まっていたのであると。
良い友を見つける、よい絵本をみつける、その気になる、いい感じになる。
こんな言葉が教育の本質かな。
新渡戸の夢ではそれを感じる。
それではまたね。