今日の当番はなみ平。

 

映画「新渡戸の夢」も11月23日にクランクアップ。

映画の公開に向け、新渡戸の業績を伝えていきたい。

 

新渡戸稲造の功績の一つに、台湾の主要産業である糖業の振興がある。
新渡戸は、1987年(明治30)35歳、札幌農学校での働きすぎから神経衰弱となり学校を休職した。働き盛りの年齢である。
 

彼は、沼津、当時、療養地として人気のあった鎌倉、そして、伊香保で療養する。

伊香保では、療養をしながら『農業本論』『農業発達史』など、札幌農学校時代の講義録を基礎に執筆した。この2冊は、日本の農業史における古典的名著と言われている。1898年(明治31)36歳の時だ。

働きすぎでメンタルをやられ、逆境の中で、素晴らしい作品を執筆した。逆境の中で、時に人は良いものを生み出すのだろうか。

そして、未だ心が癒えない新渡戸は、1898年(明治31)7月から温暖なカリフォリニアに療養のために渡米した。1900年(明治33)、38歳。新渡戸は、世界的な名著、『武士道』を著した。病気も快方に向かい、北の札幌農学校で再度教鞭をとることを考えていたが、南の台湾に向かう。

 

何が起きたのか。この決断、進路変更が、新渡戸の人生を大きく変えたポイントのように思う。

 

その頃の日本は、1895年(明治28)日清戦争に勝利し台湾を手に入れ、植民地としてその統治を進めていた。欧米などの搾取型の統治ではなく日本流の統治をしようとしたのが、その統治はうまくいかなかった。

そこで登場したのが、10歳年上の台湾総督府の総督、児玉源太郎、5歳年上の同じ岩手出身の民政長官の後藤新平。この年齢差、5歳上、10歳上についても新渡戸にとって良い年齢差であったように思う。

 

後藤新平は、農学の専門家で欧米の農業経営を学んでいる新渡戸稲造を台湾の産業を発展させるために、新渡戸稲造に白羽の矢をたてた。何度も何度も新渡戸に声をかけた。新渡戸は、“頼まれると断れない性格”、“強い愛国心”、”ノブレス・オブリージュ”、そして札幌農学校の精神である“Boys be ambitious”から、後藤新平の熱意の求めに応じたのだろう。1901年(明治34)2月に台湾に赴任した。この時38歳。

 

彼の仕事は、台湾の主要産業である糖業の振興方策をまとめることだった。

7カ月後の1901年(明治34年)9月に、新渡戸は、甘蔗の生産、製造及び市場の3方面にわたる意見書「糖業改良意見書」を提出した。

その後、その意見書を確実に実行していく。児玉や後藤らの組織人としてのリーダーシップと新渡戸の、専門性、実行力により、台湾の糖業は世界のトップクラスへ発展していく。これが、新渡戸稲造の大きな業績の一つになった。


児玉源太郎の信頼の厚い後藤新平との出会いが、39歳の新渡戸の人生に大きな影響をあたえた。その後、新渡戸は、後藤の勧めで、京都帝国大学の教授に1903年(明治36)、41歳で就任した。1906年(明治39)、44歳で第一高等学校の校長就任、そして、第一世界大戦後、1919年(大正9)、58歳の時に国連の初代事務次長に就任する。新渡戸稲造は、30代後半で、5歳年上の後藤新平というリーダーにその能力をかわれた。

 

新渡戸は、20代、30代は必死に精神衰弱になるほど学び、働き、40代前後に素晴らしい人物、後藤新平と出会い人生を大きく開花させていった。

 

新渡戸の人生に大きな影響を与えた一人が、後藤新平であったことは間違いない。

 

<参考>

「糖業改良意見書」(『新渡戸稲造に学ぶ近代史の教訓』草原克豪 P47)

 

新渡戸は、台湾の産業新奥のために何が一番適しているかをあらゆる角度から調査した。その結果、糖業、それもサトウキビから作る蔗糖がもっとも有望であるという認識に達した。その理由は、砂糖は穀類と違って加工品なので、改良の余地が多いこと、当時の日本は砂糖を輸入するために莫大な外貨を費やしていたので、そのために外貨流出削減するためにも台湾の糖業の振興を図る必要があると考えられたからである。しかしそのためには、まず、農業政策を定めて砂糖の産額を増やし、工業政策を立てて品質を改良し、さらに商業政策により海外輸出を図らなければならない。

第一に砂糖の産額を増やすために、サトウキビの種苗の改良が必要になってくる。これについては、ハワイからの優れた種苗を使い、さらに培養方法の改良と灌漑の導入によって実現できると考えられた。第二にの加工面の改良については、搾汁方法の改良に加えて製造組織の大規模化により、製糖の効率化を図ることが可能であると考えられた。さらに水利の悪い水田や新開地を活用してサトウキビを増産することを検討してみた。こうした検討を重ねた結果、台湾における糖業には高い収益性が見込まれることがあこいらかになった。最大の課題は、ただでさえ保守的な農民たちにこれまでの非効率的なやり方を捨てさせ、新しいやり方を採用することができるかどうかであった。それを個々の農民の個人的な選択に委ねたのでは効果が期待できない。農業の進歩は、商工業と異なって国家の力を必要とするので、政府が余程の決心をもってこの事業を実行する体制をつくらなければ事業の成功は望めないのだ。こうした多角的な視点から研究を重ねた末に、新渡戸はこの事業を10か年計画として、事業遂行のために糖業奨励法を発布して各種の奨励策を講じること、この事業実施のための組織として民生部から独立した臨時台湾糖務局とでもいうべき機関を設置することなど14項目からなる提言をまとめた。(以上 引用)

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新渡戸基金 理事長の藤井茂氏は、この台湾の糖業改良計画が帝国議会に提出されるときに、後藤新平の議会でのプレゼンテーションは、「この計画案は、自分が立案したものではなく、武士道を著した新渡戸稲造博士がまとめたものだ」と述べたそうだ。後藤新平も超一流の男だ。

 

新渡戸の台湾での成果の要因は、新渡戸稲造、児玉源太郎、後藤新平という3人が出会い、互いに信頼し合い、一丸となって取り組んだこととだ。

 

そして、新渡戸の札幌農学校卒業後の開拓使時代の経験、欧米での農業経営の研究、そして、精神衰弱の中で書き上げた「武士道」の精神が、植民地政策の立案に盛り込まれていたと思う。

 

<後藤新平の名言>

・金を残して死ぬのは下だ。事業を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのが上だ。

・一に人、二に人、三に人

・個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい

・(台湾統治時に)日本の行政を持ち込まず、旧来の行政に基づいて統治する

 

*後藤新平の肖像は、国立図書館の日本人の肖像から引用