正直なところ自分のことを話すのは恥ずかしいし、自分の知識の浅さも露見してしまうだろうし、そしてなにより世間には中年オヤジの独白を読みたいと思う需要があるとも思えないので、今まで書こうという気すらおきなかったのだが、「こんなきっかけでアイドルにはまった」という他人のブログ記事を読んでみると、意外にも面白いし、ああ共感できるな、と思う部分も多かった。

 程度の差こそあれ、アイドルを応援している中高年が増えてきているのは事実だろうし、「中年がアイドルオタクでなぜ悪い!」などという単行本すら出ている。わたしも若者とは違った距離感で「アイドルを応援する」ことを、堂々と趣味として言えるようになりたかった。そこで勇気を出して筆をとってみた。

きっかけ

 きっかけはPerfumeだった。わたしが30代後半の時だ。

 年の瀬まぢか、何の気なしにテレビの音楽番組を見ていた時に、彼女たちに出会った。

 衝撃だった。

 テクノサウンドにのせてカワイイ女の子達が、それまで見たこともない独特の振り付けで踊り歌う。テレビ画面から目が離せなくなった。「ポリリズム」だった。

 音楽なんてさほど興味なかったし、ましてやアイドルにも興味がなかった。CDアルバムは宇多田ヒカルの1stアルバムくらいしか買ったことがなかった。けれども、Perfumeのテクノサウンドは、ピコピコしたゲーム音楽や小学生の頃に好きだったYMOを連想させ、私の心のひだをぶるぶるとゆすってきた。

 別の音楽番組では彼女たちは「チョコレートディスコ」を歌っていた。

 わたしはそこで恋に落ちた。

 

 それからわたしは、おそるおそるYoutubeにアップされた彼女たちの動画を見始めた。見始めると止まらなくなった。次々とPerfume動画を狂ったように見始めた。「チョコレートディスコ」「ポリリズム」「エレクトロ・ワールド」。どの曲も新鮮で、繰り返し聴いても飽きることはなかった。特に「Twinkle Snow Powdery Snow」は大好きになった。もう何回繰り返し聴いたかわからない。

 

 そして動画をあさるうちに、あの有名な動画「道夏大陸」にたどり着いた。

 田舎から出てきた少女たちが、不遇な境遇の中、少しづつ応援してくれる人を増やしながら、ついに世間に認められる存在になるという、まるでマンガのようなサクセスストーリー。

 Youtube動画を見て、初めて泣いた。

 「応援しなければ」という強い切迫感に襲われた。どうしてもっと早くPerfumeに気付いてあげられなかったのだろう。どうしてもっと早く応援してあげられなかったのだろう。私の中にあった何かの「スイッチ」が、かちりと押された。

 

 

高まる熱

 それからのわたしは、会社から帰宅したらPCを開いてPerfume Headlineをチェックするのが日課になった。2chのPerfume掲示板に書かれた情報やちょっとした小ネタをまとめたサイトだった。なんと、このサイトは毎日休むことなく人の手で更新されていた。そのことだけでも、まとめ管理人の方の情熱が伝わる。そしてファンの方々が書き込むPerfumeに対するコメントが本当に面白おかしく、毎日読んでも飽きることがなかった。

 Perfumeを深く知れば知るほど、どんどん好きになっていた。

 Perfumeの魅力はもう様々な人によって語りつくされていて、ここでつらつらと書き連ねることはしないが、他のPerfumeファンの方々と同様に、「中田ヤスタカ氏による本格的な楽曲群」「MIKIKO先生によるユニークな振り付けと驚異的なシンクロ率をもつダンスパフォーマンス」「演歌歌手のような下積みを経てブレイクしたストーリー性」そして何より「彼女たち3人の人柄」に強く惹きつけられていった。いろいろな要素が奇跡的なくらいに、きれいに融合しているアイドルグループ。もうこれから一生、Perfume以上のアイドルに出会えることはないと思った。

 

 やがて、わたしは仕事で1年ほど北京に行くことになった。

 同僚とほぼ毎日食事をしたり飲みに行ったりはするが、ホテルに戻ればすることがなくなる。さほど面白いテレビ番組があるわけもなく、自然とノートPCでインターネットサイトを見ることが多くなる。

 中国では当局の規制で見ることのできないYoutubeに代わり、Youkuが動画サイトの中心だった。日本のドラマや映画、DVDなどがほぼリアルタイムにアップされている。もちろん違法だ。

 そしてわたしはといえば、夜、ホテルに戻ると、Perfumeが出演したテレビ番組をYoukuサイトで片端から見て回っていた。「気になる子ちゃん」や「シャンデリアハウス」は何回も繰り返し観ていた。予定のない休日は、PerfumeのライブDVDをひたすら観ていた。

 人見知りでインドア派のわたしが、長い海外生活を過ごせたのはPerfumeのおかげといっても過言ではない。Perfumeは心の支えであり、慰めだった。趣味のなかったわたしが、これほどまで深くのめりこんだコンテンツ。それがPerfumeだった。

 

 ただ、わたしの楽しみ方は、CD・DVDもしくはインターネット動画といったものに限られていた。

 いわゆる在宅派だ。

 もう40歳代に突入していて妻も子供もいるわたしが、20歳そこそこのアイドルに夢中になっていることは、決して他人には知られてはならない秘密だった。ましてやアイドルライブに行くなど考えられないことだった。ライブハウスに行くのは、羽目を外したがる若者や、いかにもヲタクなキモい男たちで、そこでは酒を飲んでモッシュしたり暴れたりする荒くれモノや、サイリウムをもって踊り狂う輩が跋扈する世界だと思っていた。自分のような普通のサラリーマンには縁遠い世界で、一生、そんな場所を遠くの出来事として眺めているものだと思っていた。

 在宅派というとカッコいいが、結局、ライブ現場に行く勇気がなかっただけであり、CDやDVDを時々購入するだけの「さしてお金を落とさない」ファンの一人に過ぎなかった。

 結局、わたしはPerfumeのライブ現場には一度も足を運んでいない。いや正確には、一度だけ武道館でPerfumeのライブを見たのだが、その話はこのブログの後半ですることになる。

Perfumeのその先

 Perfumeを好きになったファンの典型的な行動パターンに、「好きの対象がPerfumeだけに留まらず、中田ヤスタカの楽曲やテクノポップそのものも好きになっていく」というのがあるが、わたしもそういうファンの一人になった。

 中田ヤスタカつながりでは、Capsule、MEG、きゃりーぱみゅぱみゅ、といったアーティスト。テクノポップつながりでは、Aira Mitsuki、Sweet Vacationなどを聴くようになった。それまで音楽をほとんど聴くことのなかったわたしには、これらの楽曲群はとても新鮮で、「ああ、こういう世界もあるんだ」というわくわく感を与えてくれるものになった。

 やがてPerfumeが一般大衆に受け入れられて、紅白歌合戦に出演し、武道館を埋め、代々木体育館を埋め、東京ドームを埋めるようになると、わたしのPerfumeを「応援したい」感情は徐々に薄れていった。もう既にPerfumeはたくさんの人に応援されていたからだ。好きという感情が少なくなったわけではない。単にわたしの判断基準の中で、Perfumeは「もう十分に報われた」と思ったからだった。

 

 無意識にわたしはPerfumeの「次」を探し始めていた。

 いろいろな楽曲を聴き始めたことで、世の中には、テレビやラジオからの情報では見い出だせないカッコいい音楽、魅力的なアーティストがたくさんあることを知り始めていた。Perfumeのようにいい音楽をしているにも関わらず、不幸せな境遇にいるアーティスト・アイドルがたくさんいる。そしてその多くは夢をかなえられないまま、音楽をあきらめて去っていく。そういう人たちを応援してあげたいと思うようになっていった。

 なかなかPerfumeの「次」を見いだせないまま時間は過ぎ、仕事や家庭で忙しくなり、わたしのなかのアイドル熱は徐々に冷めていった。

Negiccoとの出会い

 2012年も終わりに近づいてきた頃、わたしはマレーシアにいた。

 設計ミスでもう一度サーバ構築をやり直すことになったのだ。予算は限られていて、わたしは単身マレーシアに放り込まれた。本番稼働までの3~4ヶ月を首都クアラルンプールで過ごすことになった。

 クアラルンプールには何度か出張したことがあり、主要な観光地も行きつくした。比較的治安がよい街とはいえ、日本人が真夜中に一人で歩くのも怖い。当然日本のように遅くまで残業する文化もないので、夕飯をとりホテルに戻ると、時間が無駄に余ることになる。わたしはいつものように、安いホテルの一室で速度の遅いWifi回線にイライラしながら、カクカクとしか動かないYoutube動画を見て、暇をつぶしていた。

 Negiccoとの出会いはその時だった。

 多分、きっかけはあるPerfumeファンの書いたブログ記事だったと思う。楽曲がよいと書かれていて試しにYoutubeで検索してみたのだった。初めて聴いたのが、音声だけの「アノソラヘ」だった。

 

 

 なぜ見逃していたのだろう、というのがまず最初に思ったことだった。

 いわゆるテクノポップと呼ばれる音楽ジャンルはできるだけ聞き逃さないように、インターネットサイトを見ていたつもりだった。けれどこんな曲は初めて聞いた。なんでこんなカッコいい曲を見逃していたんだ。なにやっているだ俺。しかもNegicco?ローカルアイドル?すごいかもしれない。いや、これはすごい。

 そこから数日間、わたしはむさぼるようにNegicco動画、関連ニュース記事、ブログを見まくった。

 時間はたくさんあった。たぶんインターネット上にあがっているNegiccoと名の付くコンテンツは、すべて見尽くしたのではないかと思う。そしてPerfume以上の衝撃をうけることになった。

 

 わたしが衝撃をうけたものをすべてあげていったらキリがない。

 それでもあえて3つだけあげるとすれば、「Negiccoのキセキを20分でまとめてみた」「ハピMライブ Negicco 感動ヒストリー 横浜アリーナ」、そして吉田豪さんによるタワーレコードのインタビュー記事「Negicco 2003~2012」になる。

 

 

 

 Perfumeどころではない苦労の連続。大人の事情に振り回され、不条理ともいえる仕打ちをうける境遇。connie氏による魅力的な楽曲。そして今まさに売れかけようとしている現在進行形のストーリー。

 なんとかして売れてほしい。Negiccoの良さに、みんな気付いてほしい。気付いてくれさえすれば、わかるんだよ。一曲聴いてくれればわかるんだよ。

 そして、クリスマス休暇で一時的に日本に帰国したわたしは、マレーシアで事前にネット注文しておいたNegiccoのベストアルバム「Negicco 2003~2012 -BEST-」をようやく手に取ることができた。「アノソラヘ」だけではない。「Party On the PLANET」「スウィート・ソウル・ネギィ-」「Summer Breeze」。スタイリッシュな曲がたくさんあった。

 なぜCDが売れてないんだ。

 何やってるんだ、日本のアイドルファン。なぜNegiccoを誰も推さない。なぜこんなにYoutube動画再生回数が少ないんだ。なぜ誰もNegicco版の道夏大陸を作らないんだ。なぜ、なぜ...。

 Perfumeの時のように「もっと早く気付いてあげればよかった。もっと早く応援してあげればよかった」と後悔したくなかった。今応援しなくて、いつ応援するのだ。

 その時のわたしは、日本から遠く離れた東南アジアのホテルの一室で、不思議な使命感にとりつかれていた。なんとかNegiccoを売れさせてあげたかった。

情葱大陸

 多分、クアラルンプールの熱気と慣れないアジアンフードと単身のホテル暮らしという特異な環境が、私をちょっとした狂気に走らせたのだと思う。わたしはNegiccoの道夏大陸を作ろうと思い立った。誰も作らないのだったら、自分で作ろうと。わたしが道夏大陸を観て感動して泣いたのと同じように、Negiccoストーリーを観て感動してもらえるものを作ろうと。

 実はわたしは動画編集をしたことがなかった。

 家庭では2人の子供に恵まれたが、運動会や校内発表会の動画を撮ったことはないし、そもそもビデオカメラを持っていなかった。デジカメがあれば十分だったし、動画編集なんて面倒だと思っていた。

 だから会社支給の非力なノートPCに、動画編集ソフトをインストールして使い方を調べるところからスタートした。(ちなみに会社支給品に勝手にフリーソフトをインストールするのは禁止されているが、もうそんなことに構っていられなかった)

 主に吉田豪さんインタビュー記事をもとにシナリオを考え、使えそうなYoutube動画をダウンロードして素材として切り貼りした。

 そしてシナリオをもとに動画編集していくと、40分ほどの長さになった。本当は20分程度の動画にする予定だった。素人が作った動画を観る長さの限界はせいぜい20分くらいだろうと。泣く泣くストーリーに無関係な部分をそぎ落としていった。そしてもうこれ以上は無理だろうという限界まで編集し、なんとか30分ほどの動画にまとめた。できれば一本の動画にまとめたかったが、非力なノートPCでは長い動画が編集できなかった。Youtube側の制限もあったし、そもそもホテルの低速Wifi回線ではアップロードできるサイズにも限界があった。画質も最低限まで落とし、10分×3本の動画に仕上げた。

 編集を終えた動画を最初からチェックしていく。3本目の最後で感極まって涙がこぼれる。まさか自分で作った動画をみて泣くとは思わなかった。感情のコントロールがおかしくなっていたに違いない。

 タイトルは「情葱大陸」。

 道夏大陸のパクリと言われれば、はいそうです、と言うしかない。ただ自分の中では、道夏大陸アンセム、という言い訳で自分自身を納得させている。ただ、この動画を作っているときは最高に楽しかった。一番充実していた時間だった。仕事以外で打ち込めるものが初めてできた喜びだった。

 2013年の1月のことだった。

 

 

Negiccoに深くハマっていく

 情葱大陸には地上波の動画を組み込んでいたし、ある程度の期間が経ったら消去されることを覚悟していた。だからアップロードに使ったIDは適当なものだったし、この動画の存在を知らせるために新規に作ったツイッターアカウントもそのIDをそのまま使った。まさか、今まで使い続けることになるとは思っていなかった。

 嬉しいことに、情葱大陸は多くのNegiccoファンの方に見ていただくことができた。調子にのったわたしは続けて、CDランキング番組のパロディーともいえるNegicco楽曲紹介動画も作成して、Youtubeにアップした。動画に対する反応がツイッターに流れるのは本当に新鮮な体験だった。Perfumeファンの時には、情報はあくまでリードオンリーのスタンスだったのだが、情葱大陸をアップしてからは、情報を発信することの快感をおぼえるようになった。

 それから数か月たった頃には、なんとNegiccoのMeguさんが、NegiccoRADIOの番組内で情葱大陸を紹介してくださった。まさかご本人にまで届くとは思っていたなかったのでこの時は本当に嬉しかった。ファンというものは、アイドルから情報を一方的に受け取るものだと思っていたが、ファンからアイドルに向けて発信することも可能なのだと、その時に初めて感じた。

 

 一通り動画を作り終えると、わたしの焦燥感は、Negicco運営が提供している公式サイトに向かっていった。その当時、Negicco公式サイトでは今後予定されているライブ情報だけが掲載されていて、過去のライブ情報は消されてしまい参照できなくなってしまうのだ。

 そのときNegiccoはすでに結成10年目を迎えていた。

 このままでは、Negiccoの進んできた道のりが履歴として残らなくなってしまう。もしNegiccoが彼女たちの夢である武道館ライブにたどり着けなかったとしても、夢に向けて進んできた過程は残さなければいけない。

 そうだPerfumeには、Perfume Headlineがあった。

 ならばNegiccoにも作ればよい。

 またまた極度の思い込みともいえる使命感をもって、立ち上げたのがNegiccoFan@Wikiだった。

 マレーシアから帰国すれば、また仕事で忙しい日々が続くことになるだろうし、一度始めたら中途半端に更新を止めることはできない。途中で飽きてしまうかもしれない。Negiccoをいつまでも好きでい続けられる保証もない。なかなかサイトを公開する勇気が出せず、一ヶ月ほどサイト非公開のまま、情報更新だけを続けていた。が、結局のところ、まあなんとかなるだろう、という踏ん切りをつけてWikiサイトを公開した。

 過去のNegiccoライブ情報をアーカイブとして残せたのは、熱心なNegiccoファンの方々がつづっていたブログ記事に負うところが大きい。今は情報交換ツールとしてツイッターが主流になっているが、情報をアーカイブする手段としてはブログが優れている。わたしもつい数か月前まではブログを書いたことがなかったのだが、やはりブログを書く人がもっと増えてほしい。

 そして海外の仕事は一段落し、ようやく、わたしは日本にもどることになった。

そして現場へ

 しばらく海外にいたわたしは、この時まで、まだ一度もアイドル現場に、足を踏み入れたことがなかった。ライブハウスに極度の恐怖感を持っていたし、そういう場に似合わない人間だと思っていた。

 ただNegiccoファンの方のツイートやブログ記事を読むうちに、どうしてもNegiccoを生で見たい、現場でその臨場感を味わいたいという思いが強くなっていった。

 そして、嫁に「どうしてもこれだけは行ってみたい」と告白していったライブが、代官山LOOPの「NegiLOAD」だった。初めてのアイドル現場。想像以上にステージとの距離が近かった。ファンの熱気がライブ会場全体を包んでいた。

 その日は「アイドルばかり聴かないで」の初披露ライブだった。

 誰もが生で初めて聴く曲だったのに、その場にいたファンが揃って「ざんね~ん」という振り付けとコールを叫ぶ。ファンの一体感が半端ない。そして初めて至近距離で見たアイドルは、キラキラと輝いていて、直視できないほど眩しかった。最後には、見ず知らずの人と肩を組んで、ラインダンスもした。楽しかった。

 そしてわたしは初めてライブ会場でCDを予約して、初めての特典会参加券をもらい、初めてアイドルとハイタッチして、サイン入りカードをもらった。心地よい疲労感を感じながら、ツイッターに感想をあげた。

 

 

 ライブ現場に一度行ってしまうと、もう元には戻れない。

 家族には残業と言い、会社には家庭の用事があると言って、平日夜に行われるリリースイベントに参加するようになった。妻帯者にとって、アイドル現場に行くことと、家庭の平穏を維持することの両立ははなはだ難しい。頻繁にライブに行けば「自分ばかり自由に遊んでいる」と揶揄される。なぜ家族を温泉旅行にも連れて行かないのに、自分だけ楽しんでいるのだと。だから、ライブに行くのは決まって平日夜になった。家庭の平穏をかき乱してまで、アイドルにのめり込むほどの勇気はなかった。

 ライブに行くペースは、2か月に1回ほどだった。

 それでもライブハウスで全身に音の奔流を浴びながら、体をゆらゆらと動かすのは、それまで経験したことのない刺激的な体験だったし、Negiccoライブはいつも安心安全で、ライブハウスに対する恐怖感は薄れていった。

ネギヲタな日々

 こうしてわたしの日常は、ツイッターに流れてくる情報を元にNegiccoFan@Wikiサイトを更新し、NegiccoがMCを務めるラジオをチェックし、時々リリイベやライブハウスに行ってライブを楽しむ、という繰り返しになった。

 やがて、Negiccoは「光のシュプール」でオリコン週間チャートの5位にランクインし、NHKの「MUSIC JAPAN」でPerfumeと念願の共演を果たし、そしてPerfumeが開催した「Perfume FES!! 2015 ~三人祭~」ではじめて武道館のステージに立つことになった。

 長年ファンだったPerfumeを生で見たのは、武道館でのこの「三人祭り」が初めてだった。ただわたしの目的はすでにPerfumeライブを見ることではなく、Negiccoが武道館のステージに立つ瞬間を目撃したい、というその一心だった。

 

 そして今、NegiccoFan@Wikiサイトを立ち上げて、4年半が過ぎた。

 わたしの娘も、とうとう一般的な女性アイドルの平均年齢に達してしまい、娘より幼いアイドルを応援していたりすることに違和感を感じたりしている。ただ一方で、娘はわたしと同世代のジャニーズアイドルを推していて、誕生日プレゼントにライブDVDをねだられたりもしている。アイドルは不思議だ。

 もうNegicco公式サイトは十分に充実したものになったし、1ファンが立ち上げた非公式なWikiサイトを続ける意義も少なくなった。ただ、いまだにこのWikiサイトの辞め時がわからず、更新を続けている。

 自分自身でも長く続けられたことに驚いているが、何よりNegiccoがいまだに輝きを保ってアイドルを続けていてくれていること、記事になるようなニュースを定期的に提供し続けてくれていること、そしてNegiccoの3人がまだまだ夢を追いかけている途中であることが、サイトを継続している理由なのだと思う。

 わたしの想像をはるかに超えて、Negiccoはまだまだこれからも活動を続けそうだし、Wikiサイトの更新も続けることになりそうだ。

そして推し増しへ

 きっとここでブログを書くことをやめれば、Negiccoを一途に推すファンとして、キレイに終わったのかもしれないが、そうキレイには終えられないことを告白せねばならない。

 世にいう「働き方改革」で残業時間が厳しくチェックされるようになり、今年の3月には3年間携わってきた大きな開発プロジェクトが終了した。わたしは比較的まともな生活を過ごせるようになった。今まで、Negicco情報をまとめるだけで必死だったのが、時間的な余裕ができるようになった。

 おりしも今年、2017年という年は、いわゆる楽曲派と呼ばれるアイドルが、ぐんぐんと力をつけてきた年だった。これまで時間的な制約から、敢えて目を向けていなかった魅力的な楽曲派アイドル達に、わたしは興味を持ち始めてしまった。

 

 特に昨年末に知った「フィロソフィーのダンス」の楽曲は、わたしを虜にした。

 Negiccoが東京でのライブ回数を減らしていたこともあり、今年もっとも多く足を運んだアイドル現場は「フィロソフィーのダンス」になった。「フィロソフィーのダンス」以外にも、「Maison Book Girl」「WHY@DOLL」「アイドルネッサンス」など、良質な楽曲を提供するアイドルに、次々とハマっていった。

 わたしは長らく「DD」と呼ばれる「だれでもだいすき」なファンを理解できないでいた。

 推しは一度に一つ。それがわたしの信念だった。

 けれど今なら、「推しは変えるものではなく、増やすもの」という名言を理解することができる。筋金入りのDDから見れば、わたしはまだまだヒヨッコだが、たくさんの楽曲派アイドルに出会えて、今年ほどワクワクした年はなかったし、来年もワクワクできる予感がする。

 

 NegiccoリーダーNao☆さんが、よく口にする言葉がある。

 「夢をかなえた人は、夢をあきらめなかった人」

 夢を追い続けるアイドルがいるかぎり、そこにファンはあり続ける。アイドルを応援するという楽しみは、まだまだこれからも続く。