銘々伝

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会津、幕末の歴史や書籍、催し物についてふれているブログです。

『歴史春秋 第97号』が届きました。私は「『維新階梯雑誌』(十三)」を寄稿しました。

 この号において、阿部隆一社長、間島勲先生の追悼文が寄稿されていました。高齢のため、郷土史家・井上昌威、斎藤哲尉氏たちも退会されました。また、西郷頼母研究家の赤城正男様も他界されたそうです。最後にお会いできたのは、コロナ前だと思います。赤城さんは西郷四郎資料館はどうされたのでしょう・・・・。赤城源三郎さんの息子さんで、頼母執筆時に西郷頼母の戸籍を借りました。有難うございました。

『会津史談 第100号』が出版されます。私が書いたのは「斎藤一こと藤田五郎の生涯(10)」と「会津史談賞受賞者からの寄稿」です。

 「斎藤一こと藤田五郎の生涯(10)」の内容は、

 

(1)藤田時尾の新たなる書状

(2)『取調日記』寄贈される

(3)いろは丸事件

(4)坂本龍馬、中岡慎太郎殺害一件

(5)三浦休太郎との関係

(6)近藤勇の三浦休太郎宛書状

 

です。

 

「会津史談賞受賞者からの寄稿」への寄稿文タイトルは「『會津史談』百号出版によせて」です。

 

 

 30年前の70号の時も寄稿しております。

 

吉海直人教授から「山本覚馬の生涯~会津と京都と同志社と~」をいただきました。どうも、有難うございます。『新島研究第117号』からの抜刷でありました。

・・・・私のことも触れられていました。まだ、枚数的に物足りないとか。覚馬のひ孫の行方が分かればよいのですが。
 三沢市山人記念館学芸員の吉田さんも出てます。廣澤安任執筆ではお世話になりました。『近世盲者鑑』は川崎尚之介にて触れたのを思い出します。
 覚馬の京都復興による受賞の根拠。今回、覚馬はこういうことも行っていたのかと思いました。それなら、受賞対象となり、新島襄と共にというのが起因でなかったとなるものでしょう。

令和七年十一月二十五日、帰宅して郵便箱を開くと、数通の喪中の葉書が届いていました。その中に、菊地明さんの奥様からのご逝去のお知らせが入っておりました。十一月三日、七十四歳で永眠され、家族葬で済まされたとのことでした。また、次号の『碧血碑』最終号は発行日未定ながら準備中と記されていました。菊地明さんが運営する「碧血碑」の会員や、賀状のやり取りをされていた方々に送られたもののようです。

 

実は、十一月十五日に「碧血碑」の集まりがあるはずでした。しかし、どなたにも連絡がつかず、私は十一月十七日に現状はいかがなものかと、御自宅宛てに手紙を出させていただきました。どなたの携帯電話も繋がらなかったからです。ご入院されていたことは伺っておりましたので、治療に専念されているのだろうと思っておりました。そのことについて何か書かれているだろうと考えていたのですが、そうではありませんでした。

 

菊地明さんは、帰らぬ人となられたのでした。現在の心情をうまく言葉に表すことができません。

 

今までのことが次々と思い出されてきます。

(泣)

 

平成十年、『新選組研究最前線』出版時には、私はまだ「碧血碑」に入会していなかったと思います。その後、赤間倭子先生が亡くなられ、何かの飲み会の席で「碧血碑」への入会を勧められ、入会したのでした。同じく既に他界されている大蔵素子さんも、その場におられた記憶があります。

 

当時、会報『碧血碑』は毎月第三土曜日に飯田橋のデニーズへ集まり、発送準備と発送作業を行っていました。会報発送後は夜に懇親会があり、さまざまな新選組談義に花が咲いていたものです。

 

菊地明さんは、新選組のみならず坂本龍馬、会津藩と、広い分野にわたり調べ、多くの書籍を残されました。『会津藩戊辰戦争日誌 上・下』を執筆されるにも、さまざまなご苦労があったようです。『歴史読本』で連載されたものが、『龍馬暗殺完結編』『沖田総司伝私記』『原田佐之助』などの単行本にまとめられました。また、『土方歳三・沖田総司全書簡集』『南柯紀行・北国戦争概略・衝鋒隊之記』など、古文書・書簡・書状の紹介も大変貴重な内容でした。中には、所在を知る人がほとんどいないであろう史料も取り上げられていました。

 

『新選組大人名辞典』『新選組史跡事典』『戊辰戦争全史』『三百藩戊辰戦争事典』など、共著としての貴重な書籍も多く執筆されました。『戊辰戦争全史』以外では、私もわずかながら執筆に加わらせていただき、さまざまな思い出があります。また、『新選組史料集』の著者のお一人でもありました。

 

菊地明さんは、現地での調査を非常に大切にされていました。文章が上手いということだけではなく、実際に現場へ足を運び、確認し、考察することを重視されていたのです。会津へ行かれたときは野口信一さんと会われ、意見交換をされたそうです。史料撮影もあったのだと思います。佐々木只三郎を書く際には、車で和歌山の菩提寺・紀三井寺や新選組隊士の菩提寺に行かれ、その際に私は助手席に便乗させていただきました。「佐々木只三郎はあそこで水葬になったのか……」と語っておられたことが思い出されます。当時の記念写真も残っています。今から二十年前のことになります。菊地さんは『京都見廻組史録』を書き上げられ、後書きに私の名前も少し掲載してくださいました。その後、只三郎の最期を記録した史料をお持ちの御子孫が現れ、菊地さんに史料提供されたそうです。そこから『京都見廻組秘録』が書き上げられました。

 

そして、大河ドラマ「新選組!」が放送されることになると、菊地さんは大変お忙しくなられました。『新選組全史 三巻』の執筆など、とにかくご苦労が多かったようで、毎月のように悪戦苦闘されたお話を伺いました。大河ドラマ放送時には、別冊『歴史読本』や『歴史読本』本誌、『土方歳三の三十五年』『図解雑学・近藤勇』『図解雑学・新選組』など、多くの新選組関連書を執筆されました。

 

十七年ほど前に『続新選組史料集』が編纂されました。新人物往来社の大出俊幸さんによるもので、史料集としては最後のものとなったのでしょうか。菊地さんは京都時代の史料を『京都守護職日誌』五冊にまとめ上げられ、とにかく史料収集に力を尽くしておられました。

 

その後、大出俊幸さんは退職され、新人物往来社も中経出版に合併されたことで姿を消してしまいました。

 

新人物往来社では、さまざまなシリーズが刊行されており、私も寄稿した『新選組銘々伝』『会津藩士銘々伝』にも、菊地さんの貴重な原稿が掲載されております。

 

菊地明さんは、他社からも多くの著作を出されました。『岡田以蔵』執筆時には、高知県へ編集者の方と共に出かけられたそうです。そして同じPHPから『新選組組長 斎藤一』を書き上げられました。執筆してよいのか、何度も念を押されたことを覚えております。「問題ないと思います」とお答えしたものでした。後書きにて、私もわずかですが協力させていただきました。

 

また、新選組検定・会津藩検定などを編集され、『新選組検定』という単行本も刊行されました。

 

そうしているうちに、ちくま学芸文庫から『土方歳三日記 上下』を刊行されるなど、そのご活躍は本当に目覚ましい限りでした。中経出版がKADOKAWAとなった後には、『ここまでわかった!新選組の謎』に寄稿され、『新選組謎解き散歩』なども書き上げられました。『新選組謎解き散歩』は、「初心者にも分かりやすいように書き上げたよ」とお話しされていたのを覚えています。

 

対して、PHPの『新選組 謎解き八十八話』はマニア向けの内容です。前書き、後書きのどこかに書かれていると思っていましたが、菊地さんから伺っていたことを思い出します。

 

そして、『続新選組史料集』『新選組史料集』にさらに史料を加え、『新選組史料大全』が執筆・編集されました。編集は菊地明さん、伊東成郎さんのお二人によるものです。これを超える新選組史料集が今後出ることはないだろうと思います。

 

洋泉社からは『新史料からわかった新選組の真実』が刊行され、新たに見つかった史料について書かれています。『維新階梯雑誌』を見つけた際には、コメント執筆を菊地さんにと、編集部の方からお願いがありました。その時のお話は、碧血碑発送作業を行っていたデニーズの隣の喫茶店でした。昔はそこで会報発送作業も行っていた記憶があります。

 

しかしながら、コロナ流行により発送作業ができなくなり、菊地さんお一人で編集、製本、封筒詰め、発送を行われていました。この一年ほど、「体力が落ちた」「記憶力が落ちた」というお話も伺ってきました。私自身は記憶力がよくないのですが、菊地さんのお言葉を伺い、「本当のことなのだな……」と胸に迫るものがありました。最後の飲み会の席でのことです。

 

書籍としては、五年前の『地図で読む 新選組顛末記』が最後の著作だったと記憶しております。

 

これまでにも数多くの書籍を書き上げてこられた菊地明さん。小説とは異なり、新史料をもとに書籍をまとめるという手法で、多くの関心を集めてこられました。新史料というものは、そう簡単に見つかるものではありません。昔はオンライン化もされていませんでした。

 

多くの方々の協力を得ながら、そしてご自身でも他の何倍も努力され、積み上げられた成果が、これまで書き残してこられた多くの書籍群であります。

 

これほどの偉大な御仁が他界され、本当に残念でなりません。しかし、菊地明さんは生前、本当に全力で尽くしてこられたと思います。

 

菊地さんからは細部に至るまでさまざまなご指導を賜りました。調べごとや執筆に関して注意されたことの数々も、忘れることなく胸に刻み込んでおります。

 

私は菊地さんを生涯忘れることなく、これからも努めていきたいと考えております。

北海道博物館から『新選組永倉新八と会津藩士栗田鉄馬ー二人のサムライが歩んだ幕末・近代ー』をいただきました。一応、協力者の一人となっています。  会津藩士の栗田鉄馬に送られた杉村義衛・死去2か月前の写真が展示されているそうです。余市や蝦夷地移住の諸記録も参考になります。

『若松記草稿』の山口次郎たちの動向、隊士名簿と同一文の写本があるのは驚きました。 しかし、『開拓使公文録』における解説は分かりやすく書かれています。