艦艇・船舶つれづれ

艦艇・船舶つれづれ

旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今週は、私の所属している課の社員が、立て続けに2名体調を崩し出勤できなくなる事態に。

あ、二人ともインフルエンザではなく、それぞれ別の症状です。

結果、この二人の業務も引き受ける必要があり、メンタルに堪えた一週間でした。

このため、本日は買い出しに付き合った以外は、家でおとなしくしてたので、特に書くこともありません。

 

 

今回は、1月13日(火)に出張で訪れた兵庫県相生市についてのレポートです。

 

山陽新幹線で降り立ったJR相生駅。

新大阪から「ひかり」に乗って新幹線下りホームに降り立ちます。

 

JR相生駅・新幹線下りホームより見た相生市街地方面

 

JR相生駅は、市街地から少し離れているようで、駅から見る風景はホテルと住宅を望み、遠くにクレーンがかろうじて見えます。

新幹線ホームは、中心部を除いて胸の高さの壁のうえはガラス的が入っておらず、直接景色を見ることができます。

 

ホームから降り、柵内コンコースを見ると「ペーロン祭り」に使用するペーロン船が出迎えてくれます。
 

新幹線コンコースの「ペーロン船」

 

説明版には次のように書かれています。

『音と光の祭典 相生ペーロン祭

 「相生ペーロン祭」は播州路に初夏を告げる一大イベントで、毎年5月最終日曜日に相生湾で盛大に開催されます、その前日(土曜日)には、およそ4,000発の花火が打ち上げられる豪華な海上花火大会が開かれます。

 ペーロンの起源は、紀元前3世紀中国の戦国時代白龍(パイロン)という小舟競漕したのが始まりといわれています。

 ペーロンは、パイロンがなまったもので、わが国に伝わったのは、今から約300年前の江戸時代初期に中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できず、船員が海神の怒りを鎮めるためにペーロン競漕を港内で行ったのが始まりで、相生市では大正11年、長崎県出身の造船所従業員が異郷でふるさとをしのんで始めたのが 相生ペーロンの起こりです。  』

 

相生市を代表する行事として行われているのがわかります。

また、このコンコースには、このような展示もあります。

 

「IHI標準石油運搬船」の模型

 

『要目

 長さ(全長)170米、長さ(垂線間)162米、幅(型)26米、深さ(型)14.35米

 計画満載喫水(型)9.45米、総噸数:約17,800噸、積貨重量瓲 約24,000瓲

 速力(航海速力)15.5ノット、

 主機械 IHIスルザーRND68型ディーゼル機関1基

     連続最大出力 11,550馬力×150回転

     常用出力   10,395馬力×144.8回転  

 建造者 石川島播磨重工業株式会社          』

 

新幹線・在来線と改札を通ると、自由通路にはこんな展示が。

 

「2025羅漢の里もみじまつりかがしコンテスト 受賞作品特別展示」

 

おもしろ案山子が並んでいました。

昼前の移動だったので、昼御飯はラーメンに決定!駅の北口から5分ほど歩きます。

 

「ラーメン八角 相生店」さんの唐揚げ定食

 

仕事の後、街を歩いてみます。

駅を出ると、造船の街らしく駅前に錨のオブジェがありました。

 

駅前の「錨のオブジェ」

 

街に向かって歩いていきます。

市街地の近くから芋谷川沿いに下っていくと、「相生コスモマリーナ」のクルーザーなどを吊り上げる大きなクレーンがありました。

 

「相生コスモマリーナ」のクレーン

 

海にたどり着くと、海辺に長い公園がありました。

 

「相生ポート公園」

 

ペーロン祭はこの公園の前で行われるそうです。

「ポート公園」にもペーロン船がありました。

 

相生ポート公園の「ペーロン船」

 

向かいには、大きな工場が見えます。

 

「IHI相生桜ケ丘工場」

 

「IHI」の企業城下町である相生らしい事業所ですが、造船所は今では分社化されています。

 

海沿いに下っていくと、ある説明板がありました。

 

「皆勤橋」の説明版

 

次のように書かれています。

『造船所(現石川島播磨重工業株式会社)と市街地は、従来渡船で結ばれていましたが、太平洋戦争(一九四一~四五年)が始まると、従業員の増加に伴い、渡船での通勤は困難となり、一九四三年(昭和十八年)、海上に箱船(ポンツーン)一〇台を並べ、浮桟橋で繋ぎました。箱船の大きさは、長さ一五メートル、幅七・五メートルのもので海上二〇八メートルを繋ぎ、皆勤橋と命名されました。

 その後、皆勤橋は多くの造船マンの誇りや、夢や、希望を繋ぐ掛け橋としての役割を果たし、一九七二年(昭和四七年)ごろには一日約一万人の従業員が皆勤橋を渡り、造船業の全盛期を支えました。しかしながら相生の発展を見守り、名物であった皆勤橋は使命を終え、二〇〇二年(平成十四年)二月に、市民に惜しまれながらその姿を消しました。

 ここに皆勤橋があったことを記念し、モニュメントを建立しました。

  平成十四年三月 相生市

  寄  贈    石川島播磨重工業株式会社   』

 

説明版の写真を拡大してみます。

 

「皆勤橋」の写真

 

この橋、今では「安全性が~」などと言われてしまいそうです。

案内板にあったモニュメントはこちら。

 

「皆勤橋」のモニュメント

 

ちなみに、この造船所は明治40年に播磨船渠として設立され、大正10年には神戸製鋼所の分工場となりますが、昭和4年に播磨造船所として独立したうえ、昭和35年には石川島重工業と合併し「石川島播磨重工業(IHI)」となりました。

平成2年には相生工場内に「アイ・エイチ・アイアムテック」が分社設立され、平成7年に住友重機械工業と艦艇部門の統合により「マリンユナイテッド」を分社化、さらに平成14年には石川島播磨重工業の海洋船舶事業部門全体を分社化し「アイ・エイチ・アイ・マリンユナイテッド」として独立し、平成25年にはユニバーサル造船(旧日本鋼管の造船部門と日立造船の造船部門が統合した会社)と合併し、「ジャパン・マリンユナイテッド」と商号を改めるとともに「アイ・エイチ・アイアムテック」も「JMUアムテック」と商号を改め現在に至ります。

 

以前にもこの播磨造船所の軌跡はブログで取り上げたことがあります(忠臣蔵・赤穂浪士の故郷にある造船所)ので、そちらも紹介しておきます。

 

「兵庫県相生・造船の街を歩く」ですが、長くなってきたので続きは次回とします。

次回もお付き合いいただければ幸いです。

 

【参考文献】

 Wikipedia