昨日、あまり眠れませんでした。

というのも、親の相続財産について考えていたからです。

 

私にとって、父の後妻さんというのは敵でした。

お父さんっ子だった私から、お父さんを奪った人だったからです。

 

だから、もし、お父さんが亡くなることがあれば、ごねにごねて、もめにもめてやろうと心に決めていました。

 

ずっとそういうつもりで生きてきたけれど、自分が四十になって、こんなにも考えが変わるとは思いませんでした。

 

 

今は、後妻さんの味方になろうと思っています。

ラインで、「相続のことでもめるつもりはない。献身的な看護を見て、感謝の気持ちがある。憎い気持ちはもうないです」ということを伝えました。

 

お父さんへの献身的な看護をみたら、憎い気持ちは消え去ってしまいました。

hashunohaで相談した、お坊さんに「感謝できることだけ受け取るといい。子どもにはルーツを知らせるという意味でお父さんには会わせた方がいい」という言葉をいただきました。

主治医には「対応を変えなくても、許すと自分が楽だよ。許すって省エネだからさー」と言われていました。

これは、私が実母に対して思う愛憎のごったまぜの気持ちについてのアドバイスでしたが。

 

ヘルパーさんからは、違う話題で「お金があるからこその不幸がある」と言ってもらいました。

確かにうちはそのパターンでした。それに「宝くじに当たった人が離婚しやすいのは、お金がなければ、多少のことがあっても我慢して一緒に子育て頑張ろうと思うけど、お金があると別れた方が楽だねってなるから家族崩壊しちゃうんだって」ということもヘルパーさんは言っていました。

 

実母はすごいモラハラで、父がいなくなった後、そのモラハラの矛先は自分に向かっていました。

生粋の嘘つきで、「お父さんが出ていく理由を知りたかった」と泣く私を「その年に応じた説明をすればよかったのにね。ひどいお父さんだね」と慰めていた裏で、父に説明をさせないように強いて、父は私を引き取りたかったのに「この子はどんなことをしても絶対に私のところに戻ってくる」と言ったそうです。

でも、母は、私にはそんなことを一度も言わなかった。

 

 

二十年前、母方の弁護士さんに「あなたのお母さんはモラハラなの。だから、あなたもお母さんから離れたほうがいい」と言われたことがあります。

三年前に弁護士さんと再会したとき、「どうしていたかと思って心配していた。生きていてくれてよかった。ずっと心配だった。幸せそうでうれしい」と涙ぐんでいたので、実母のモラハラは相当だったんだと思います。

 

また、なんでも話せる近所のおじさんからのアドバイスもありました。

そういうことがパズルのようにはまっていって、親の残すお金に執着するのはほどほどにしよう、と素直に思いました。

 

 

お父さんが幸せに暮らせたのは、後妻さんのおかげ。お父さんが最後に心配したのは後妻さんの今後の生活のことだろう。

だったら必要以上にもめるのはやめよう。

 

 

私の人生、ずっとお母さんのことで悩んで時間を無駄にしてきた。

今後、お母さんが死ぬのを三十年待って、幸せを逃すのはやめよう。

さんざん、時間を無駄にしたじゃないか。

七十歳になって、たとえそれが(本当にたとえですけど)二億円だったとして、二億円をもらってもうれしいかどうか…。

それよりは、ないものだと思って、楽しく三十年暮らした方がどれだけ幸せか、私は身に染みてわかっているはずだと、シンプルに思ったのでした。

 

ここでまた、嘆くのは簡単です。私は、お母さんがどんなことを私にして、私はどんな風に感じてきたのか、なぜお母さんは私にそんなことをしたのか、それをずっと考えてきました。相当の時間を費やしました。

そのこと自体を後悔して、またさらに時間を無駄にする、ということを繰り返してきました。

どこかでそれにピリオドを打たなくてはいけません。

「嘆くのをやめる」と自分で決めて、実行するしか、そのプロセスを変えることはできません。

だったら今、「嘆くのをやめる」と決めてしまう方が楽です。

 

 

お母さんがしたことに意味なんかないし、理由なんてない。ただ、思いついたからしたんだろう。お金が何よりも好きな人だったんだろう。それでいいじゃないか。

愛情が欲しかったけれど、愛情はなかった。でも、お母さん以外の人からたくさん愛をもらって生きてこれた。それに感謝できるはずだ。

 

 

私は、お母さんにされたひどいことをふと思い出し、それを何度も反芻してしまう癖があります。でも、その癖をやめないと取り返しのつかないことになってしまいます。

人生を失い、認知症になっても、お母さんにされたひどいことを忘れられない老人になってしまう…。

だったら、「嘆くことをやめると決める」ことにしよう。

 

私はかなり早い段階で「うそをつくのをやめよう」と決めました。

実母は世間体を気にする人だったので、父が家を出て別居したことを、すべての人に隠すために、父は家に帰ってきていて、家庭は円満なのだといううそを私につかせていました。

母方の祖父母が亡くなるまで、二十年間うそをつきました。

私はそれで、うそをつくことがどれだけ苦しくつらいことか、脳のリソースを食うことか、よくわかりました。

「だから、自分の意志ではうそをつくのはやめよう。

絶対にうそをつかない、というのは難しいことだけど、小さな嘘で得をしようとか、そういうことはやめよう。噓をつかないでいたほうがずっと楽に生きられる」と思って生きてきました。

 

だから、人の嘘も、気になります。

もちろん、許せる嘘と許せない嘘があります。過度に潔癖にならないように気を付けても来ました。

 

 

後妻さんのことをずっと敵だと思ってきました。向こうも、私にかまえていたと思います。

でも、私のほうが「彼女は敵じゃない」と思うようになってから、後妻さんの長所が目に入るようになりました。

 

嘘をつかないこと。正直なこと。率直なこと。父を愛して、ずっと寄り添っていたこと。真心を込めて看護していたこと。

そういうことを、本当はわかっていて、でも長所があることさえ受け入れがたかったことも、見えるようになりました。

 

 

許す方が楽だって本当ですね。

 

夫の母、私から見て義母もまたうそをつく人です。

でも、夫はそれに関心がありません。

自分の親に関心がないから悩みもしません。

見習おうと思います。

私も、母への関心を持たず、悩まずいられるようになりたいです。

悩むだけ時間の無駄。若いころからずっと言われてきた言葉ですけど、その言葉をようやく正面から受け止められる日が近づいてきたかもしれません。

 

 

昨日はそんなことを考えていたら、眠れなくなってしまい、今日は調子も悪く、メンタルも不穏気味ですが、それとは別に晴れ晴れとしたすがすがしい気分もあります。

 

この気持ちが持続できないのが、人間の難しいところですが、それでも、一回は気持ちが整理できてうれしいです。