こんなに知名度のある作家であるのに、太宰治についてよく知らない、という人は多いと思います。
そこで、序編に続く2回目の今回は本ブログの本筋に入る前に
太宰治という人がどのような人であったのか、2回に分けて簡単に触れ、
少しでも太宰に親近感をもって、本編を読んでもらえればと思います。
太宰 治 だざい おさむ
明治42(1909)年~昭和23(1948)年
本名・津島 修治(つしま しゅうじ)。
青森県北津軽郡金木村(現・青森県五所川原市)に生まれ、
東京都北多摩郡三鷹町(現・東京都三鷹市)に没した。
生家の津島家は津軽屈指の大地主、富豪で、
父の源右衛門は貴族院議員、衆議院議員にもなったこの地方の名士であり、
「金木の殿様」と呼ばれていた。
太宰は源右衛門の六男(11人兄姉の10番目)で、
父は事業に忙しく、母のタ子(たね)は病弱だったため、
叔母や乳母、子守によって育てられた。
津軽に生まれ育ったこと、
生家が大地主であったこと、
六男坊として育ったこと、
この3つが太宰の生涯と文学を理解する上で重要である。
以上は『人間失格』(新潮文庫)の巻末に収録されている奥野健男氏の解説冒頭から引用した文章です。
このことは、太宰作品を読む上で確かに重要で、作品の根底にいつも流れているキーワードです。
しかし、こういったことは文庫の解説や作家紹介の本を読んでいただければ
書かれていることですし、今後、本編の中でも触れていくと思うので、
今回は割愛させて頂いて、もう少しフランクに、
「太宰治という人」にスポットを当ててみようと思います。
まずは身体測定を。
身 長:176センチ
体 重:55キロ
靴のサイズ:約27センチ
現代においても、なかなかの大男ですよね。
また、大食漢でもあり、人一倍食い意地もはっていました。
昭和5(1930)年、21歳の時、
太宰は上京して東京帝国大学仏文科に入学するんですが、
下宿の棚の奥にカニやみかんの缶詰、保存食の類をしこたましまいこみ、
客の接待用とサイダーもしまっていたようですが、
客用というのはあくまでも建て前、実は全部自分用なのでした。
昭和12年(1937)、井伏鱒二と川崎長太郎らと三宅旅行をした際、
太宰はいつも人の見ていない時を見計らって
味噌汁6杯を口にしていたという。
それを見つけられた太宰は「みつかったか」と言い、
照れながら笑ったそうです。
なんだか、お茶目な面もあるんですね。
弘前高校時代、太宰はいつも3杯分の味噌汁を魔法瓶に詰め、
お弁当と一緒に持ち歩いていたそうです。
太宰はお箸の使い方も上手で、
長い指で、長い箸の先だけ使って、綺麗に魚を食べたそうです。
そのわりに、せっかちなところもあり、
骨の多い魚は苦手だったようです。
やっぱり、かわいい。
太宰は鶏の解体も自分で行いました。
三鷹の農家から鶏を一羽買うと、
自分でひねって血を抜き、羽をむしって、
肉は骨付きのままぶつ切りにして水炊き鍋にしたそう。
美知子夫人は
「あの虫も殺さぬ優しい人がえいっとばかりにひねってしまう」
と回想されています。
配給米に籾や赤い筋のついた米粒が交じっていると、
面倒がるそぶりを見せることなく、
器用な箸先で拾い出したという話もあります。
ちょっと長くなっちゃいましたが、
太宰は「食通」だったんですね。
このほかにも、
歯があまり良くなかったため、湯豆腐を好んで食べた、とか
鮭缶に味の素をかけて食べた、とか
食に関するエピソードは尽きないのですが、
残りはまた次の機会に。
太宰はお酒にも強かったようです。
飲み始めると一升以上は飲んだようですが、
決して酔っ払って人に絡むことはしなかったそうです。
ここは、彼の美学なんでしょうね。
酔っ払って絡む人を、ひどく嫌ったようです。
この頃は、メチル(アルコール)も流行していましたが、
メチルという危険な安酒は好まなかったようで。
太宰はお酒の飲み方も贅沢だったんですね。
太宰はウイスキーも好きで、
「日本酒は喜劇、ウイスキーは悲劇」と言ったとか。
りんご酒も好きだったようですね。
あぁ、意外と長くなってしまいました。
太宰について語り始めると、いつもこうなんです。
語りたいことが多すぎて、止まらなくなってしまうんです。
今回も1回の予定で書き始めたのですが、
長くなりそうなので、ここら辺で一度区切っておきたいと思います。
それだけ魅力に溢れた人物である、ということを
次回と併せてみなさんにお伝えできれば良いな、と思っています。
次回は、太宰治のお洒落な一面や
女性にモテモテだった一面について触れていきたいと思います。
なお、今回参考にさせていただいた書籍に関しては、
次回分と併せ、参考文献としてアップしたいと思います。
それでは、次回をお楽しみに!