「自分が王国の王様で、

世界は、王である自分の思うままに、

自分だけのルールで回っているんだから、

まわりを氣にすることなんてないんだよ!

それでもって、世界に起きる現実はすべて、

自分が創っているんだよ!」

 

というこれは、

ほんとうに、「自分を生きる!」わぁ!!感動!!

みたいな感じで心地がよさそうなので、

こういった意識で生きている、あるいは

生きようとしている方というのは

実際いるのだと思います。

 

 

 

思いますって、何それ。今さら。

今までさんざん、そういうの違うよと言っておいて。

 

 

 

 

 

とにかく、いる。たくさん。

 

 

 

で、これを提唱している人のことを久しぶりに、観賞、してみましたの。

 

そうしたら、

やはりといいますか、

数週間ごとに訪れる

「望まない現実が起きること」と、

「それによる深い落ち込み」と、

その後に突如降臨する

「めっちゃ大きな気づき!!」とやらを

繰り返す経験、をなさっておられました。

 

 

 

 

 

ふむふむ……。

 

 

 

 

 

 

これ、前にも言ったことがあり、

過去記事を貼るのが面倒なので貼りませんが(すまんどす。あとで、貼っておくかもです)

こういう「王様意識・王国意識・創造主意識」といったものは、

分離した、個の自分 が

「大いなるもの」になった「つもり」になっているだけのこと。

「大いなるもの」には起こらない意識です。

 

 

 

そして、こういう

「王様意識・王国意識・創造主意識」

で生きることによって得られる幸福感あるいは幸福というのは、

 

 

 

一時的

 

なんですよ。

 

断言するお。

 

絶対的に、一時的。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、どうして落ち込むのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

カンタンだよ。

 

 

 

 

 

 

「望まない現実」は

 

 

起きてはいけない

 

 

と思っているから。

 

 

 

さらに言えば、

 

 

それによって「落ち込む」なんてことが

自分に起きてはならぬ!!

 

 

 

よくないことだ

 

 

と思っているから。

 

 

 

 

 

つまり、

 

自分の望んだことは

望んだとおりになる、

ならねばならぬと思っていて、

それが「できる」と思っている。

 

 

 

だから、そういうことができそうな

「創造主」であろう!と思ってしまうわけだし、

 

 

 

望んだとおりにならないことは

イコール よくないこと となる。

 

 

 

 

 

 

 

えっとですね、

この世界の、どこに、

自分の望んだとおりに現象を動かせる存在がいます???

 

 

 

 

 

 

私なんて、オノレの心臓ひとつ、

思うように動かせたことないですわ。

 

 

 

 

 

よしっ!!

明日こそ絶対3拍子でいくぞ!

でも午後からは超アレグロでスタッカート効かせてこう!

その現実創るぞ!!エイっ!

 

 

って

毎日思うのに、できた試しない…しょぼん。

 

 

 

 

 

(うそ。そんなこと思ってナイ)

 

 

 

 

 

 

望ましい状態が、

ずっと続くのが「良いこと」で、

そうじゃなくなるのは「悪いこと」。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、

これですね。

 

苦しみのもとというものは。

 

 

 

 

 

 

 

まあ、私も、非二元の在り方になると

 

永遠の幸せがあります、だの

 

失われない安心、だの

 

これまで書いてしまっており、

そこも認知的歪みの一因にはなってしまうわけですが、

 

 

 

 

非二元という不変性の中に(上に、でもよい)現れる

「現れ」というものは、

常に、常に、変化していて、

良くもなれば悪くもなる。

 

 

 

その「いい」とか「悪い」とかの

判断すら、座標や時点によって

どうにだって変化するもので、

なんの根拠も、一定性も、確実性もない。

変化する「現れ」でしかない。

 

 

 

 

すべては、

 

 

 

不動・不変の「あるもの」の上で、

永遠に、変化し続ける(もちろん、消えて失われたりもする)。

永遠に、現れては消え、現れては消え…

 

 

 

 

 

変化していく、ものなのです。

 

 

 

 

 

 

なのにその変化を

 

「悪い」と思っちゃってる。

 

 

ただそれだけ、

 

なんですYO。

 

 

 

 

 

 

 

あれですな。

 

 

まな板と、玉ねぎ。

 

 

 

 

 

まな板という

不変・不動のものの上で(まな板も、汚れるし傷むんだけど、とりあえず不変ってことでよろしく)

 

玉ねぎが、みじん切りにされたり、

 

細切りにされたり、

 

なんていうの?酢豚に入れるときの、

太めのくし切りを横半分に切ったやつ、にされたり…

 

どころか、

 

まな板から離れたー〜ー!と思ったら、

丸ごとフープロでガーーーーーッとやられちゃった!!

 

 

 

ってね。

 

 

 

 

 

みじん切りは「いい」けど

酢豚切りは「悪い」

 

 

ですか??

 

 

酢豚切り、落ち込んでます??

 

 

 

 

……。

 

 

またもや、「なんなんだ。この記事は」状態に入っておるぞ。笑

 

 

 

 

好きなんですよ、

玉ねぎのみじん切り。

 

 

セッションにいらしてくださった方は

おわかりかもしれないのですが、

 

言ってるでしょ。

 

玉ねぎのみじん切りの話、出てましたでしょ。

 

 

あれ、毎回言ってるの。笑

全員に、必ず、

「玉ねぎのみじん切りとかーー、いいと思いますよーー」

 

って、何それ。笑

 

 

 

 

 

酢豚切りでもなんでも、いいわけです。

 

落ち込まないでいいのよ、変化しないものなんてないんだから。

 

そしてハナから、

思いどおりにできることなんて

 

 

 

 

ただのひとつも!!!

 

ない!!!んだから。

(残念なお知らせでしょうか!?)

 

 

 

 

 

でも、だからこそ、

「一なるもの」…「ライフ」でも「おおもと」でも「ソース」でも

言い方はいろいろですがとにかく、

「それ」が勝手に起こすことのほうが

 

フレッシュで

 

アクティブで

 

鮮やかで豊か。

 

 

 

 

「思いどおりになんて、ちっともならないナー」

 

っていう「落ち込み」も含めてね。

 

 

 

 

もちろん、

 

「やったーー!思いどおりになったーー!!」

 

という喜びや興奮も含めて、です。

 

「やったー!心臓でスタッカート、ついにできたーーー!!」とかね。

 

 

 

 

 

 

「みじん切り」にするはずが、

「小さめの角切り」になっちゃうことだってあるし、

「うっわ!指!指切れたーーー」なことだって起きる。

 

 

 

世界を、現実を、

 

自分の思いどおりに創る存在は、

 

い・な・い

 

ですよ!!

 

 

 

 

ちなみに、

玉ねぎのみじん切りをするのが好きな私は、

肉じゃがでは、

玉ねぎの、下の方(根っこの側)をつなげたままの

大きめのくし切りにして、

煮込んだあとでもどれだけその状態を保てるか!?

ということの現象化に、

もしや自分が人生で持ち得る分の

「思い入れ」というものを

だいぶ無駄遣いしている氣がします。

 

「そろそろかな」

 

と頃合いを見てお鍋のフタを開けて見た時に、

根っこが外れて、

うっすいくし切りばかりの状態にバラバラになっていると、

「落ち込み」ます。笑

 

 

当然ながら、はがれずにカタマリの状態を保っている

玉ねぎばかりが目に入れば、

 

「うっは!ラッキーー!!」くらいに、喜びます。

 

 

 

 

……。

 

これは、アレだな。

竹の筒? でお粥をつくって、吉凶を占うやつ。

 

あれに代わる、

「肉じゃが占い」を発明できたかもしれませぬな。

 

 

 

 

 

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