前回の続きです。

 

2016年夏に来た「ソロモン王」が言ってきたこと。

 

 

それは

 

 

「王国をつくるな」

 

「王にも隷属民にもなるな」

 

 

ということでした。

 

 

雷のような大声で言われたので、

だいぶ重要そうな印象ではありました。

 

(ソロモン、自分は思いっきり「王様の玉座」に座ってましたけどね)

 

 

これは、

前回書いたように、

エルサレムに第3神殿をつくって

かつてのユダヤ王国のような国をもう一度つくる…

 

 

それを「してはならぬぞ」という意味なのでしょうか。

 

 

その可能性はゼロではないと思っていて、

だとすると、トランプさんやプーチンさんなど、

動向に注目すべき方々は多いなぁと思います。

 

 

 

もう一つ、

人の心に関わるような意味でも

 

「王国をつくってはならぬ」と

 

ソロモン王は言ってきたかもしれないと思います。

 

 

とかく、何かの教えが説かれる場所では

導き手が中心人物となり、

教えの受け手がその周辺にコミュニティを形成する

ということが行われます。

 

そのような場所では、

導き手を必要以上に崇めてしまうようなことも

起きないとは言えません。

 

「王」と「民」の如き関係のもとに、

依存が生まれてしまうケースもあるでしょう。

 

 

 

 

さらにもう一つ。

 

 

「自分ビジネス」ですとか、

「自分を生きる」ですとか、

 

 

何かと「自分」「じぶん」と謳われる昨今、

 

 

なかには文字どおり

 

「この世界は私だけの王国」

「自分はその王国の王」

 

といった啓発も出てきていると…

あるお客様から教えてもらって知りました。

 

 

 

「個の自我」って、

ほんとうに好きなんですね、こういうのが。

 

 

 

「何か」にならなくては、

幸せになれない。

だからなろうとするのですけど、

 

 

 

「個の自分」である限り、それは無理

 

です。

 

 

 

 

 

「個の自分」=「苦しみ」だからです。

 

 

 

 

ざんねんなお知らせです。

 

 

 

 

これまでも何度も書いてきている

 

「私が創造主」

「私が神」

 

そして新たに登場した

 

「私が自分の王国の王」。

 

 

 

どれも、

 

「つらい」からやり始めるものですね。

 

 

 

そのままの自分、

そのままの現実では、

つらくて

(言い方は悪いですけど)氣にくわないから

 

「つらい世界を変える」ために

 

 

 

「自分は○○なのだ」という意識操作をし始める。

 

 

 

 

「個の自分」って、つらいんですよ。

 

 

 

「私」というもの自体が、そもそもイコール探求、

つまりはイコール「苦しみ」です。

 

 

「何かを、求める」という時点で、

「私」とは、「苦しみ」です。

 

 

 

だからこそ、苦しみからどうにかして逃れようと、

さらに何かを探したり求めたりするわけですが、

 

「私」=「探求」なのですから、

 

探求をし続けなければ、

つまり「苦しみ続けなければ」、

 

 

「私」(個の自我)というものは

存続できません。

 

 

 

苦しみが、終わることはない。

 

 

 

 

なので。

 

 

仮に、です。

 

「自分は王だ」というような意識を説いている方が、

 

「そういう意識になったら、

世界が愛にあふれた!」

 

というようなことを言ったとしても、

 

 

 

 

それは一時的です。

 

必ず、期間限定で終わります。

 

 

 

解放というものは、

二元の世界では起きないからです。

 

 

 

 

 

 

「愛にあふれた世界」はすぐに終わってしまうので、

またもや「私」は

「私は○○だ」という意識操作をしなければなりません。

 

 

 

そうやって、やり続けなければならないのが

「個の自我」(二元)を生きる方法です。

 

 

 

 

 

 

なのですが。

 

 

非二元が目覚めると、あらふしぎ。

 

苦しみは終わります。

 

 

 

 

大きな違いです。

 

 

 

 

 

 

 

わかりやすいお話を一つ。

 

 

 

非二元が目覚めると、

「やりたい」とはまずもって思わなくなるものが、

わかりやすく2つあります。

 

 

 

「やろう」「必要だ」という発想が、

まったく起きなくなるもの。

 

 

 

それは

 

 

①「私が自分の王国の王である」と言った意識操作の類い

 

 

 

そしてもう一つ分かりやすいのが、

 

 

 

②イメージワーク の類い 

 

です。

 

 

 

する必要、どこにもなくなります。

 

 

「ホニャララを使って(イメージして)統合」とか、

 

「ナンタラな思いはアレコレ色とナンタラな形で統合」とか。

 

 

 

 

 

本当に、要らないのです。

 

 

分かりやすいです。

 

 

 

つまりこれは、

いま、目の前で導いているその人が、

二元なのか、非二元なのか、

 

 

それが

わかりやすい、ってことでもあります。

 

 

 

二元のお話というのは、

「現実を変える」ことが結局のところは目的です。

 

どんなに「そこが目的ではありません」と言っていても。

 

 

 

現実(世界)を変えれば →→→→→

 

→→→→→ 私の幸せがある

 

 

という大前提の上に、必ず立っています。

 

 

ここでいう「世界を変えれば」とは、

 

「インナーチャイルドを癒して〜〜」とか、

「幼い頃の母との関係が〜〜」

 

といったものも含んでいます。

 

 

 

「私はつらくなんかなくて前向きです!」

「やりたいことや夢にあふれています!」

 

 

と言っても、

 

「でも人の目が気になって」

 

「自分一人で頑張ってしまって辛くなってしまって」

 

「自由でいたいのに、家族を見るだけでイラついてしまって」

 

 

 

などなど、

 

「変えたい」の宝庫。

 

 

 

 

「私」というものは、

 

 

とにかく、

 

 

「変えたい」し

 

「なんとかしたい」のです。

 

 

 

 

ですから、

教えの受け手の方の中に、

現実を変えれば幸せがある、という思い込みがある場合、

こうした二元の導き手の方が語る

「世界が変わった」意識操作術や

イメージワークといったものは、

魅力的に見えてしまうだろうなと思います。

 

 

 

であるならば。

 

 

「現実を変えれば幸せがある」という信念に

疑いを持てないなら、

その道を進めば良い…そうしかできないのだと思います。

(悲しいぜよ)

 

 

 

 

でも、そこから目覚めることが、

二元の終わり。

苦しみの終わりです。

 

 

 

 

そうなると、

 

 

 

「王国」?

 

 

つくる必要ないよね、

てわけで。

 

 

 

 

 

 

 

まだまだ、

二元の先生が世の王道(文字どおり笑)。

 

 

 

「王国をつくってしまう」人、

 

 

たくさん出てしまうのかもしれないですね。

 

 

 

 

●「つらさ」が起点で一生(意識操作を)やり続けるか、

 

●無条件に「失われない安らぎ」と、ずっとともにあるか。

 

 

 

 

こういうわかりやすさでもあるよ、と、

とってもわかりやすく、

思います。

 

 

 

 

さほど遠くない時期に、

非二元の世界とその情報に、

より多くの方が触れるようになり、

氣づく流れが起きてくる氣はしていますけれども。