前回、「すべてを諦めた」から今がある、

というようなことを書きました。

 

 

 

そのとおりなのだよな、と改めて思います。

 

 

 

望まないできごとがたくさん起こって、

翻弄され、

何とかしなければと必死にもがき、

それが解決されれば必ず明るい日が来る…!

と信じていた「私」が、

それらをすべて諦めた。

 

 

 

 

「自分ががんばれば何とかなるのだ」

 

 

と信じていた「私の自我」が、

すべてを諦め、

 

 

「私にできることは何もない」

 

 

と何のひとつも抵抗することを放棄した。

 

 

 

 

「降参。参りました」

 

と、文字どおりお手上げ状態になった。

 

 

 

 

それによって…

 

 

それまで「これ以上確実なものは存在しまい」と

信じて疑っていなかった

「私の自我」というものが、

ウソのように力を弱め、力を失いました。

 

 

 

 

できること、

なんにもなくなっちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

で、ですね。

 

 

大事なこと。

 

 

「自分が何とかがんばれば」

「自分が何とかする」を辞めて、

「この私」は何もしなくなってしまったというのに、

 

 

 

 

 

 

 

私、生きてます。笑

 

 

 

 

 

以前より、ずっとくつろいでます。

 

 

「自分が何とかする」とがんばっていた頃よりリラックスして、それでいて愉しい毎日です。

 

 

 

「すべては自分が創っている」ように感じていた頃にはちっとも起きなかったような流れや、ご縁、出会いといったものが増えて、

できごとがたくさん起きています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、そういうことなんですよね。

 

 

「私の自我」が何とかしたりしなくても、

 

 

「いのち」が、すべてを起こしてくれる。

 

 

「一なるもの」が、全部やってくれる。

 

 

 

 

 

 

 *

「二元性」とは、

「陰と陽」「善と悪」「優と劣」など、

双極性のことを言う面もありますが、

もうひとつ大きなことは、

 

 

「私」と「世界」。

「私」と「私以外のすべて」。

 

 

 

この2つ(二元)があるということ。

 

 

 

「私」は「私以外のすべて」から独立した存在だという、疑いようのない感覚。

 

「私」は「世界」の中にいて、

「私の意思」を以て「世界」の中で動き回り、

行動したり決断したり、

何かを手に入れたり問題を解決したり。

こういうことすべてを、

「私」がやっているという揺るぎない信念。

 

 

この、

「私」という信念や感覚こそが、

二元性そのものなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

でも、この私は「すべてを諦め」ざるを得なくなり、

 

「私」が降参して

大人しくなってしまった。

 

 

 

そうしたら、

「私ではない氣づき」が立ち上がり、

 

 

おやまあ… となりました。

 

 

 

「私にできることは何もなくても」

 

 

「いのち」がすべてやってくれて、

勝手に起こしてくれるのだ、

ということに氣づきました。

 

 

 

 

 

 

「私」はただそれに従って

動くときは動くし、

動かないときは動かないという

現れが起きてくるだけ。

 

 

 

 

「これをやったら周りはどう思うかな」

「家族が許してくれるかな」

「お金がない、若さがない、才能がない、勇気がない」

 

 

 

とかく世間で言われるようなあれこれを考える役目の「私」はすでに力を失っているので、

こういう考えが浮かびません。

 

 

 

 

ある意味、勝手氣ままな

(氣まますぎる笑)存在の出来上がり。

 

 

氣ままなのです。

ラクなのです。

 

 

 

 

「私」が、「世界」を創ろうとするより、

余計な心労がナイ、のです。

 

 

 

 

 

 

 

ここ、大きいんじゃないかなーと思います。

 

 

「まわりがどう思うか」

「あれがナイ、これがナイ、ナイ、ナイ、ナイ」

「私なんて」

「私だって」

「でも怖い」「傷つきたくない」

「ブロックが邪魔する」

 

 

 

こんなあれこれを解決するために、

世の中でいろんな工夫がされていますが、

 

そういうあれこれ、

ゴチャゴチャなマインドを働かせる「私」というもの自体を、もっと緩めてみたらよいのではないでしょうか。

 

 

 

 

「私」がサレンダーになって、

非二元が立ち上がる。

 

 

それは実は、

 

「今、起きていることを、ちゃんと観る」

 

だけで、できるもの。

 

 

私はかなーりイタイ思いしましたが、

ほんとうは、

すべてを諦め、打ち拉がれるようなプロセス踏まなくたって大丈夫、っていうことです。笑