この記事の終盤に書いたように、

 

https://ameblo.jp/veronica88/entry-12550647015.html

 

私の中には「ハトホル」という存在が入っています。

 

 

今年の1月中旬に、突然入ってきました。

 

そのできごとからして

すでに相当「頭がおかしい」わけですが、

しかしそれは実際に起こってしまいました。

 

 

そしてそのとき、

私はそれが「私ではない」こと

(私自身の想像や妄想ではないこと)を示してもらおうと、

 

「その示し(私の妄想ではないこと)を、

 わかりやすく3回見せよ」

 

とお願いし、結果的に、

とっても奇妙なことが起きるのですが…。

 

 

 

 

要は、私自身の意思に反して、

いくつかのことをさせられた、

それは、私自身は決してやらないことである、

だからその指令(?)を送って

やらせている私の中の存在は

「私自身ではない」ぞと

このような論法で示してきたわけです。

 

 

これを、頼んだとおり3日間にわたって、

つまり「3回」やらされました。

 

それも、私にとって

とっても「わかりやすい」ジャンルの

できごと・・・具体的に言えば、

食いしん坊の私にとって重要な「食べ物」に関して、

普段の私なら決してやらないことを

やらされた、というわけです。

 

 

 

このような奇妙なできごと・・・

「自分の意思に反して」という部分に関して、

「おかしな存在から自由意思を奪われている」

といったように解釈される場合もあると思います。

「低級靈に憑かれている!」みたいに。

 

 

 

 

ええ。

それ、

私自身がまず真っ先に思ったことでして。笑

 

 

 

何かを伝えてくる存在が

高い次元のものであれ、

低級なものであれ、

受け手の意思が効かないレベルで

「何かをさせられる」ということが

実際あるのだ、ということを

このとき知りました。

 

だからもちろん、

低級なものや魔のものに

入り込まれてしまうようなことは、避けなければなりません。

 

 

そうならないようにするためには、

日頃から、自身の心や意識の在り方を整えておくことしか

できないのではないか、ということも、

このとき強く思いました。

 

 

 

魔は、ちょっとした心の隙間に

するっと入り込んできます。

 

それどころか、

心のスキマなんてないつもりの、

 

「何かを伝えたい」

「よく在りたい」

「人々に良い影響をもたらしたい」

 

といった最初は健全な欲求に対してすら、

ある時点から

魔の独自のやり方・手法を以て

働きかけてくるからです。

 

ご参考:魔の手法と終わらない苦しみとノンデュアリティ

 

 

 

こうした事態を避けるためには、

自分の欲求や願望が、

健全でオーセンティックなものなのか、

それとも、少しでも

「エゴ」を基にした部分があるものなのか、

自分自身で氣づける力が必要だと思います。

 

 

でないと、上の記事に挙げたようなことは

すぐに起きてしまいます。

 

 

 

これは、自分が、誰か発信者の方の発言や

啓発内容を受け取る側に回った際にも

大事なことではないかと思います。

 

どんなに高い支持を得ている発信者でも、

エゴの望みをはらんで発信している方は

残念ながら少なくありません。

 

本人は大抵の場合、

「無自覚で」それをやっています。

 

だから、受け手としても、

それに氣づく・見極めることは

必要なのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

ハトホルといえば、

アメリカ人のトム・ケニオンという方が有名なようです。

 

彼も実際、

ハトホルが初めて現れたときには

いきなり「ワシントン州へ行け」と言われ、

そのとき彼はノースカロライナに住んでいて、

ワシントンなんて唐突すぎるのに、

仮に引っ越すなら

自分が好きなサンタフェがいいよ!と思ったのに、

有無を言わさず、

結局ワシントン州へ行かされたのだそうです。笑

 

 

自由意思って、何なのでしょう?

 

 

ハトホルは、

このことについても伝えてきています。

(長くなるのでまた今度)

 

 

 

 

私の中にいると思われるハトホルは、

トム・ケニオンさんのところにいるハトホルとは違い、

プラーナの扱い方ですとか、

頭の周りにイメージを動かす(?)ような

エクササイズの類いは伝えてきません。

 

 

私が、そういうのは面倒くさくて

あまり好きじゃないからかもしれません。笑

「こいつには、言ってもやらないだろうな」と。

 

 

 

 

ですが、言っていることの大筋は

似ているような氣がします。

 

「一なるもの」「一なるものの法則」について、

それに沿って生きるとはどういうことか、

こればっかりを、しきりに伝えてくるからです。

 

 

 

すなわち、二元性からの脱却。

 

 

「非二元で在りなさいよ」

 

ということを、

毎日のように言われる日々です。