もともとの表向きの職業が編集者・記者である私は、

そうは言いつついわゆるジャーナリズム精神旺盛な方がニガテでした。

 

ペンの力で悪を正す!とかって、

何かと批判したりアンチな意見を意気軒昂に発する方々が。

 

仕事をし始めの20代の頃は、そういうものに対して、単に

 

「なんか怒ってんなー」

「こわいぜ」

「近寄らないでおこう」

 

くらいに思っていたものが、それなりに大人になって(年季が入って)くると、

批判精神が旺盛な方たちの中には、

 

年齢や経験を問わず、

自己肯定感が不十分で、

自己承認ができていないぶん、他者からの承認を求め、

そのために、自分以外の何らかを批判することで、

自らの正当性を示し、優位に立てたような、

自己価値が上がったようなカンチガイ、

 

をしようとしている方が紛れ込んでいるのだ…ということが、分かってきたりしたものです。

 

で、まぁ、

ジャーナリズム精神を掲げる方のなかでも、

私はこうした「自己肯定感の低さ」をほかの方法で解決しようと代償行為をしている方たちというのが特にニガテでして、ますます近寄らないようにしてきたのですが。

 

 

さて今、自分がこうして「ほんとうの自分」と「仕事だと割り切ってやってきた自我」との乖離に嫌気がさしたことにより、

自分内の乖離について書いた記事:ほんとうのことにシフトしたい

 

 

 

少し前から、思うとおりのことを発信するということを始めてみましたら…

 

 

 

批判っぽい記事、多い(爆)。

 

 

よっぽど今まで、このブログに複数回書いてきたようなあれこれが、

よっぽどキモチワルカッタんだなぁと、我ながらに思います。

 

 

 

 

これが私の自己肯定感の低さというものから来ているのか、

はたまた自分の正当性を示したくてしていることなのか、

そういったことは記事を読んでいただければわかる…というか

自由に判断していただいてよいのですが、

「己の正しさ」を示して

「相手を正そうとする」ことほど意味のないことはない、

ということは知っているつもりです。

 

そうした正誤なんて見る側次第だし。

意味ない。

 

 

なので私の発信の正当性は特に示されなくてもよく、

私以外のそれが正されなくてもまったく構わないのですが、

それでも、こと「目覚め」というものに関しては、

完全真逆の内容を「目覚め」だとして発信しているものに向かっては

 

「もしもし?逆ですよ」

 

ということは、今後も言い続けていくかもしれません。

 

 

真逆とはつまり、「個の自我を肥大させること」。

これが、目覚めとは真逆。

 

 

なんで何度も言うかというと、

個の自我を肥大させて

二元で生きている限り、

苦しみは決して終わらないからです。

 

 

 

人類誰もが求めている幸せや平和、愛というものは

そこには決してないからです。

 

 

 

「個の自分」「個の自我」とその肥大、

そしてそれらと「非二元」との違いについては、

こちらの記事などをお読みいただけたらうれしいです。

 

「個の自分が見ている夢」とノンデュアリティ

「目覚めとは何でしょう?」シリーズの理由

 

 

 

そしてこのお話、もう少し続けます。