「目覚めとは何でしょう?」シリーズの続き。

 

 

 

怒りや、嫌悪、憎しみ、悲しみ。

 

そして嫉妬に妬み、

罪悪感、枯渇感、劣等感、無価値観 etc.

 

はじめに挙げた4つより、あとに続けたほうが

何となく曖昧で

正体が見えづらいような気がしますが、

まぁとにかく、こうしたいわゆる

「ネガティブな感情」というものを、

手放して、光にする。とか

統合する。とか

「吐く息とともに、重たい波動や

 ネガティブな感情やは手放して~~」

とか。

 

いろいろやります、「個の自分」は。

 

 

白はいいけど、黒はダメ。

ダメなものは手放します。

いや、本当はダメじゃないのよ、黒もいいのよ、

でも意識の次元上昇は光(白)だから、

黒は手放して光(白)にしましょう。

 

 

ふむふむ。

 

「ダメじゃないよ、黒もいいのよ」

と言いながら、

なぜか、白にするふしぎ。

黒にする人がいないふしぎ。笑

 

「夜明け前が一番暗い」と言う人はいても、

「夕闇の前が一番明るい」と言う人には

会ったことがないふしぎ。

 

「アセンションするもしないも

 善い悪いではありません。

 どちらも学びです」と言いながら、

「じゃあ私は残ります」という人にも、

なぜか出会わないふしぎ。

 

 

 

それって

 

「どちらもいいのです」

ではなくないのかなー。

 

 

結局は「どっちがどうだ」というものが

見えない前提にあって、

結局は「白がいい」って思ってる。

 

 

 

これでは、

あなたも、私も、そして地球も、

埒が明かなくないですか。

 

 

「どっちがどうだ」の範疇で生きている限り、

いくら「陰陽統合」とか「浄化」とか

「自分の中の曇りを払って」…と言ったところで、

「相対性」の世界で生きている限り拮抗は続き、

どうやったって終わらないのではないですか。

 

 

そんな「二元」から丸ごと抜け出した

ほんとうの意味での「非二元」の生き方が

始まらない限り、舞台が同じなんだから。

 

 

 

もし近いいつかの日に、たとえば、

この世界を支配してきた存在たちのことが

開示されすべて露わになったとき、

今の意識のままの「私」たちでは

(前日までどんなに「光ですー」「愛ですー」と言っていようが)

 

「許せない」

「罰すべし」

「征伐・制圧されるべし」

「グアンタナモに全員送って、全員処刑!」

 

みたいな思いが、起きないって言えるのかな。

 

それが正義?

それが善?

それが白で、それが光?

 

 

 

 

 

いまの二元の次元に答えはないでしょ、

と思うのです。

「次元を超える」んでしたよね。

 

 

だけどいま、世の中で言われている教え(のようなもの)のほとんどは、「二元」の枠の中の話のように思えます。

「私」という「個の自分」が、

厳然と存在しています。

 

その「私」が現実を創ったり、

創造主だと思おうとしたり、

宇宙そのものなのだと考えようとしています。

そのように説かれるし。

 

 

 

だから「私」は「現実を変えよう」とし、

変えれば幸せがあると思っていて、

そもそも目の前の現実は

変えられるものだと思っている。

「自分が変われば」「現実が変わる」。

この二つは、大概セットで諭されるし。

 

 

これが、大半の現状かと思います。

「個の自分」にはこれが限界だろうとも

思います。

 

 

 

 

 

ここで、オセロ。

 

 

 

白はいいけど黒はダメ。

白黒入り混ざったものを

ひっくり返して白だけにしたり、

黒は取り去って白だけ残そうとしたり。

いろんなゲームが、そのつど展開。

 

「個の自分」は、いろいろやる。

世界を創るのは自分だと思い込んでいるから。

 

 

明くる日には、

 

「おい、またオセロやろうぜ」って、

 

「昨日はお前が白だったから

 今日は白、オレな」って、

 

あれ? 自分が黒(闇)になっちゃったよ!

 

なんてことも起きるのに。

 

 

 

あーだこーだと変わるオセロ。

白が黒になり、黒が白に、

数が増え、数が減り、

勝敗があり勝敗は入れ替わり、

遊ぶ者の白黒さえ、その時次第。

 

現れては消え。

現れては消え。

 

 

 

 

でも、

 

 

 

変わり続けるオセロの中で、

 

 

 

たったひとつ、

 

 

変わらないもの。

 

 

 

ずっと、そこに在り続けるもの。

 

 

 

 

オセロ盤。

 

 

オセロのボード。

 

 

 

 

「ほんとうのわたし」は、そっち。

 

 

 

 

 

 

オセロ盤は、言わないよ。

 

「私が創造主!」って言わない。笑

「現実は私が創っている!」とも言わない。

 

 

 

そもそも、

 

 

 

誰も現実創ってない。

 

 

 

創造主(空(くう)でも、ソースでも)も、

創ってない。

 

すべて、勝手に現れる。

 

 

 

現れた現実は、変えなくていいもの。

今ある(嫌な)現実を

「受け入れる」のも必要ないこと。

 

 

 

受け入れようが受け入れまいが、

現実は、勝手に現れる。

 

 

 

 

これらを、自分が「できる」

「やっている」と思っているのは、

オセロの駒。

 

 

「個の自分」の一人コミケ。

「創造主のコスプレ」劇場。

 

 

 

なのに……

 

多くの「先生」たちは、

「個の自分」に力を注がせ、

手放させたり光にさせたり、

現実を変えよう

問題の見方を変えて波動を上げようなどなどなど、

 

それが「あなた(個のあなた)」にはできるのだと

教えます。

 

 

 

話を、すり替えます。

 

 

ある部分では「ほんとうのあなた」である

「一なるもの」の話をしている先生もいる。

一部だけど。

 

でも

じゃあどうするか?の部分では、

「個の自分」に働きかける。

なぞのすり替えを起こします。

 

意図的なのか、そうじゃないのかは知りません。

 

「個の自分」に何かをさせ(統合や浄化のなんちゃらでも、願望実現のなんちゃらワークでも、なんでもいいけど)

「現実は創れる」と欲を刺激し、

それでいて「学びを続けているのに現実が変わりません」といった真剣なお悩みに対しては、

「現実を変えることが目的になっています。

 それは波動が低いです」

なんてことを言ったりする(わお…)。

 

 

そうやって、二転三転すり替えながら、

本来は健全な成長への欲というものを

不健全な自己利益の欲へと変容させ……

「個の自分に力を注ぎ込ませ」ます。

「個の自我を拡大」(肥大化)させていく。

 

 

 

 

「個の自分」がやっているのは、

創造主になりきった「つもり」のコスプレ。

 

コスプレは、

大掛かりになればなるほど

「ほんとうのわたし」が見えなくなります。

個の自意識が力を注がれ肥大化すればするほど、

オセロ盤は、覆い隠されて

どんどん見えなくなってしまいます。

 

 

 

このカンチガイから目覚め、

二元の限界に氣づき、

そこで生きることをやめ、

非二元を生き始める人が、

 

ほんとうに、

増えますように。

 

(できれば、すり替え起こしている先生方も、その事実に氣づいてくださいますように)

 

 

 

 

最後に。

 

 

非二元で生きることが始まると、

「闇を手放して光に変えよう」とか、

「闇の支配者たちはグアンタナモで処罰せよ」

みたいな思考も感情も起きません。

 

「私は愛です、光です…」と

何だろう、あえて言いたくなる??ようなことも

うーん…何というかまず起きません。

 

 

二元じゃないから。

前提の意識世界が、

異なるから。

 

「どっちがどうだ」は両方なくなり、

「私は○○」と示すことも不可能になるから。

 

ぜんぜん違う進み方があるということが、

わかるようになるからです。