とかく女性は生きづらい、と言われる昨今。

#MeToo や #KuToo など、女性が声を上げることが増えています。

 

特にジェンダー・セクシュアリティに関わることでは、

「怒り」の感情を露わにする人がとても多いと感じます。

 

#怒ってボコるためにリングに上がってゴングを待つような

 

これはたとえばセクハラをする側のおそらく男性に対してだけでなく、

もう長いこと(胸の内では怒っていても、表向きは)「もぉ〜、やめてくださいよぉ〜〜」などとつくり笑いで受け流してきた、そんな在り方を定着させてしまった女性たちに対しての怒りでもあるようです。

 

「女性はもっと怒るべきだ!」

 

こうした発信をしている方も実際多いわけで、webメディアでも「怒り」に関する特集があったりします。

 

https://telling.asahi.com/feature/11023512

(▼セクハラについての直近の記事はたとえばこんな感じ)

https://telling.asahi.com/article/12743966

 

でも、中には「男性全般を目の敵にしているの?」とでもいうような、何も起きていないうちから(私が思う程度としては→)必要以上に好戦的といいますか、ひとり率先してリングに上がり、ゴングが鳴るのを待ち構えているような方もいるような……?

 

 

怒りを表に表わすことって、難しい。

 

 

 

さて、いまから話す方が上で述べたこのタイプというわけではないですが、昨日は「怒りがおさまらない」という方に、ノンデュアリティのお話をさせていただきました。

その内容は、

 

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職場にしつこいセクハラをする上司がいて、当の本人に対しての怒りはもちろん、まわりの同僚(とくに40代以上の先輩女性たち)が「つくり笑顔で受け流す派」ばかりで、ストレスが大きい。

なぜヘラヘラした態度で済ますのか、そんなだからセクハラおやじも調子に乗る一方、自分も迷惑を被っている。

ビシッと言いたいけれども職場の空気を乱すから我慢している。なぜ私が我慢しなくちゃいけないの。

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といったもの。

イライラしてストレスがひどい、いまどきセクハラなど御法度なのだから、誤ったこの状況を正しく改善したいと思っている、のだと。

 

 

 

ところが、いくつか質問をしていくうちに、この方の心の奥には、セクハラうんぬんではない「感情の火種」があることがわかりました。

 

 

それは、「自分のほうが優れているのに」という思い、です。

 

 

#「ほんとうの悩みは、こっちだよね」

 

仕事の能力や情報力、世間一般の知見など、自分のほうが知っていて、できるのに、「まわりがそれに氣づかない。認めてくれない」、そんな不満や悲しさが、心の奥深くの見えないところで声にならない声を上げていたということが、わかりました。

 

 

こうした1ディレクトリ下層のテーマが露呈することは、意外と頻繁に起こります。

 

「最初に話してくれたことじゃなく、ほんとうの悩みは、こっちだよね」っていう。

 

 

 

そして実は、さらに掘り下げれば……。

 

「認めて欲しい、評価されたい」という思いの底には、無意識下でかたく信じている思い込みがあります。昨日のクライアント様の場合のそれは

 

「人から認められなければ価値がない」

「認められるには『できる人』でなければならない」

「『できる人』でなければ、自分には価値がない」

 

といったものでした。

 

 

 

心理学や自己啓発、セルフヘルプの世界では、こうした思い込みを「信念」や「コア・ビリーフ」と言ったりして、これを解除して囚われから解放されるためのさまざまな試みがなされます。

 

認知行動療法もそのひとつですし、EFTなどのタッピング療法や、NLP(神経言語プログラミング)、アファメーション、ブロック解除うんぬんなるもの、そして各種のエネルギーワークに、インナーチャイルドへのヒーリング……。

 

こうしたすべて、否定しないし、有効なものも多くあります。

私自身、できるものも複数あります。

 

 

なのですが、ノンデュアリティからのアプローチは、これらとはまったく異なります。

ノンデュアリティのセッションでは、こうした状況の底の底、根底に目を向けて、ちゃぶ台をひっくり返す、ではないですが、言ってみれば「元も子もない」ところに目を向けます。

 

 

#「その問題は、問題ですか?」

 

 

正にまったく、元も子もなく、身も蓋もない。

 

ノンデュアリティの世界からは、これを、ダイレクトに問うことになります。

それでしか答えは出ないからです。

 

 

そしてその答えというものを、その場で、発見し体験していただきます。

 

その問題って、問題なの?

問題であるなら、あるいは問題でないなら、どうするの? そこには何があるの?

 

 

 

その答えが、ご自身でわかる。

それはもう鮮やかに、清々しいほどに。

 

 

「怒り」は一次感情ではなく二次感情で、怒りの下にはほかの感情、悲しみや悔しさ、さびしさなどの「ほんとうの思い」が潜んでいると言われます。

だからその「ほんとうの思い」をケアする必要があるのだと。

 

これは確かにそのとおりで、昨日のクライアント様の場合は「○○でなければ自分には価値がない」というのが最も奥にあるコア・ビリーフ。

それが満たされないことにより、悲しさや悔しさの感情が暗躍し、そのカモフラージュとして表層に噴出していたのが、「対セクハラにすり替えられた怒り」でした。

 

表に表れる「怒り」のその下、隠れている問題の本質(だと世間的にはされているもの)を発見できれば、それだけで、やみくもに怒り散らしたくなるような感情の揺さぶりや、それによるストレスは相当軽減されるかもしれません。

 

 

それでも、ノンデュアリティでは「もっと本質」に目を向けます。

問題とされることへのケアや解決とは、異なる方法で取り組みます。

 

 

何しろちゃぶ台、ひっくり返すし。

疑いどころのない思い込みという頑(かたく)ななゲシュタルトが、ガラガラと崩壊しちゃうわけです。

 

 

二次感情である怒りの下にある信念(思い込み)を見つけることは、「私」を知るためには役立ちます。

この私自身、そういった信念の小さなカタマリみたいなものを見つけて、

「おお、こんなものがあったか」とある種の感嘆をすることは、今もあります。

 

でも、前の記事でも触れたように、知るべき「私」とは何者か。

ノンデュアリティが指し示す「私」とは何なのか。

 

そこに目を向けていくのです。

 

 

 

新しい扉が開く、かな。

多くの方に、開けていただきたい扉です。