古稀
古稀は満年齢で数えるのではなく、数え年であるという。人生古来七十稀なり、と言われてきたが、今時、それはピンとこない。この言葉の由来になった杜甫の詩「曲江」は難しい字が多いので敬遠してきた。明日、古稀を迎えんとする私なので、古稀になる前に、やっとではあるが何とか読んでみた。
曲江 杜甫
朝囘日日典春衣 朝より回へりて日々春衣を典し
毎日江頭盡醉歸 毎日、江頭に醉を盡して歸へる
酒債尋常行處有 酒債は尋常、行く処に有り
人生七十古來稀 人生七十、古來稀なり
穿花蛺蝶深深見 花を穿つ蛺蝶は深深として見え
點水蜻蜓款款飛 水に点ずる蜻蜓は款款として飛ぶ
傳語風光共流轉 伝語す風光、共に流転して
暫時相賞莫相違 暫時、相賞して相違ふこと莫れ
「曲春衣」:春着を質に入れることである。貧乏官吏である杜甫は酒を飲むため、質屋通いをしていたらしい。
「盡醉歸」:グデングデンに酔っぱらって帰ることである。役所での不満を心に酒を飲み、酒に強くないので憂さ晴らしができる前に酔っぱらってしまうようである。
「酒債尋常」:飲み代の借り、酒代の付けのことであろう。行く先々に酒代の借りがある、
とはだらしない、飲兵衛である。
「人生七十古來稀」:平均寿命が短かった当時、七十歳は珍しい。七十歳になっても杜甫は毎日、役所に出勤していたとはこれもまた珍しい。七十歳が珍しくない現代でも、私は疾っくの昔に引退した。杜甫の苦労もわかる。
「蛺蝶」:アゲハ蝶。「花より花へ蜜を吸う蜂の勤しみ我が励み」は旧制二高の校歌の歌詞であるが、アゲハ蝶にはその勤勉さは感じられない。だた、花の奥深く首を突っ込んで蜜を楽しんでいるだけである。
「點水蜻蜓」:水面に尻尾を付けて産卵しているトンボ。
「款款」:緩やかに。
「傳語風光」:景色に伝言する。
川の周りの自然の景色は、風光明媚とまでは言わないまでも、心休まる景色のようである。人間相手には、嫌なことばかりなので、せめて自然の風景くらいは、ということを杜甫は言いたいのであろう。
杜甫の時代と今では大違いである。何しろ七十歳の人は掃いて捨てるほどいる。長生きがめでたいことである、というのが当てはまらない人も多い。杜甫だって七十が珍しいとは言うが、めでたい、とは言っていない。長生きや不老長寿を求めるのは秦の始皇帝のような一部の人間なのではないか。杜甫が長生きしたいと思っていたかどうか、まだわからない。
私も、何とかこの歳まで生きながらえてきた。決して平穏無事に古稀を迎えるわけではない。今までに命拾いをした経験は少なからずある。川で、溺れて死にかかったことから始まり、ヨットでも危なかった。ロンドンでは時速百キロで走ってきた車と衝突もしたこともあった。海外出張では、空港を飛び立って一時間後に、エンジントラブルに遭い、緊急着陸したこともあった。あれやこれやで、何度も命を拾ったのであるから、今は片手に余る命を持っていることになる。化け猫には九つの命があるように、私も結構な命持ちである、と自慢していた。
私は、死んでもおかしくない危険な目に遭った時、命拾いをした、と胸をなでおろしてきた。はたして、それは正しかったのか、と今頃になって考えた。あの危なかった時、助かったのは、命を拾ったのではないのではないか。最初は本当に命を拾ったかもしれない。しかし、二度目の時は、二つ持っている命の一つを使ってしまったのではないか。そして、三度目に助かった時は、また運よく、命を拾ったのであろう。
最初に拾った命を、次の時使ってしまっていたとすると、今手持ちの命いくつなのか。二つか、一つか。あまり、何度も危ない目に遭ってきたので、手持ちの命の数があやしくなった。次は命を拾うのか、最後の命を失うのか、どちらかであろう。いずれにせよ、残された人生を有意義に送りたい、と願っている。
2012-1-14