翻訳家ヴェリッシモさんのブログ

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ブラジル文学翻訳家のヴェリッシモです。日々の翻訳作業での思い、気づきなどをつらつらと書いていこうと思っています。

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皆さん、お久しぶりです。

 父の死後、それを理由にして、倦怠を楽しみ、味わってここ二年間を過ごして来ました。今、その倦怠にも飽き、ようやく現実世界に戻り、翻訳を始めた次第です(もちろん、僅かばかりの時間を利用しては、こつこつと翻訳作業を細々と続けてはいましたが……)。日々、社会生活に追われ、それを強要されて生きている人々(極めて、まともで普通の人間です)には理解できないかもしれませんが、この二年間あまりの非生産的生活は、私にとって実り多き時間だと思います。

 何が有意義だったかといいますと、かつて自分が抱いた“野心”や“無意味なこだわり”を完全に捨て去ることができた点にあります。分かりやすくいえば、古き時代に抱いた“他人によく思われたい、評価されたい”という願望が、“神によく思われたい、評価されたい”というものに変わったことです。「誰からも認められず、評価されずとも、神は常々、温かい眼差しで自分のことを見てくださっている」、そう思うだけで、私の心は満たされ、幸せな気分になるのです。

 エリコ・ヴェリッシモの『野の百合を見よ』という作品の中に、次のようなフレーズがあります。

 

E, quando o amor ao dinheiro, ao sucesso, nos estiver deixando cegos, saibamos fazer pausas para olhar os lírios do campo e as aves do céu.

お金や成功のために人を愛して、それによって盲目になってしまうような時には、野に咲き乱れる百合や、空に羽ばたく鳥たちを眺めるために立ち止まるということを思い出さねばならないわ。

 

 まさにこの二年あまりの時間、“野に咲き乱れる百合や、空に羽ばたく鳥たちを眺めるために立ち止ま”っていたのだと思います。

 “頑張る”(この言葉は大嫌いです)ことをせず、あるがままの自分をリスペクトしながら、翻訳に取り組んでいきますので、皆さん、温かく見守ってください。よろしくお願いします(ホームページ http://erico-verissimo.weebly.com)へのご来訪を心待ちにしています)。

 皆さん、お久し振りです。ここ一ヶ月間は、エンジンは始動しているものの、アイドリングの状態が続いています。翻訳の方は一作品、完訳でHPにアップしましたが、そこから先、二作目の読み合わせは放り投げている状態で、新訳中の作品も下訳がどんどん溜まるものの、手つかずという体たらくです。

 一体、どうしたことか? これが巷で流行っている“五月病”というものでしょうか? 良く言えば、“充電”期間中と言えるかもしれませんが、ここのところ現実から目を逸らしがちかもしれません。いっぱしの社会人とは言えない自由人たる自分が“、五月病”に罹るはずもないとは思いますが、何とも不可思議な精神状態です。

 通勤翻訳、何とか短時間集中型で続けています。本来であれば、車窓の景色を眺めながら優雅な時間を翻訳作業にあてるのが理想ですが、立錐の余地もないほど人に溢れ返った車内ではそれも叶いません。現在、取り組んでいる翻訳が息も詰まるような人間ドラマですので、今の通勤翻訳、良い具合に作用するかもしれません。

 さて、そろそろアイドリング状態から、一速にギアを入れてソロソロと体を動かしていこうかと考えています。

 
 今日は翻訳とは関係があるようで、ない文章を書きます。

 昨日、闘病中だった父があちらの世界へと旅立って行きました。一月の初めに入院して、ほぼ三ヶ月余り、よく頑張ったと思います。もともと物静かで、黙々と全てをこなす父の最後の仕事ぶりを見て来て、今更ながら、「お父さん、かっこいい!」と思いました。

 私の幼少期、父は海外転勤族でした。よって子どもの頃、父との思い出は極めて少ないというか、全くと言ってよいほどありません。最後の海外赴任地であったブラジルで、ようやく家族全員が集い、家族らしい生活が送れました。そうした経緯もあって今現在、ブラジルのある生活を送っています。その点、ブラジルとの出会いを提供してくれた父に感謝です。

 私自身、“物静か”な人間ではありません。その部分は父から受け継いだのではなく、すでに他界した母から受け継ぎました。精神面で私が父から受け継いだものといえば、“頑固一徹の一本気”でしょうか。それによって、良くも悪くも私の人生が紆余曲折なものとなっているのでしょう。

 囲碁と読書。父の人生最後までの趣味でした。後者の読書好きは父から私に、そして娘たちに受け継がれています。家族全員、無類の本好きです。子どもの時分、父親とのお出かけの定番が“書店巡りでした”。朝の開店時間から閉店時間まで書店で過ごすこともざらでした。そんな父親に喜んでもらおうと、子供心ながら年齢に相応しく無い本を片っ端から読み漁りました。今回、入院している父の口からまともに発せられた言葉が、「マンの『魔の山』をもう一度、読みたい。本を持って来い」でした。中高生の時代、この『魔の山』を読もうと頑張りましたが、未だ読破が叶っていない宿題本です。

 翻訳の第一弾である『野の百合を見よ』を出版した時など、一番喜んでくれたのは父でした。「おめでとう」の言葉は聞けませんでしたが、父の目がそのように語っていました。翻訳をやる度に、第一番目の読者であり、評論家であったのが父であり、今、取り組んでいる作品も読んでもらいたかった。

 このように脈々と父のDNAを受け継ぐことのできた自分、駄作かもしれませんが、父の遺志を継いで楽しく、幸せな人生を歩んでいこうと思います。

 「お父さん、本当にありがとう」。心からそう言います。
 新たな生活が始まり、二週間余りが経過しました。“通勤翻訳”、順調とはいえない滑り出しです。二週間で僅か原文4ページ余りの進捗具合です。都内の朝の時間帯はいつであっても混雑しているのですね。席を確保できるのは片道半時間余りでしょうか。今後は“立ったまま”でも翻訳できる方法を編み出さなければなりませんね。

 こんな些細なことでボヤいている自分は、小ちゃな存在だと思います。熊本の地震。恩師の田所清克先生が熊本に住んでいらっしゃいます。地震以前から、いくら連絡取ろうとしてもなしのつぶてです。先生とは共に20年余りお仕事をご一緒させていただきました。携帯に着歴を残しても、反応無しです。うがった見方をすれば、先生の方が連絡取りたくないということでしょうか。しかし、恩師であり、共同執筆者でもあった先生の安否を知らずにはいられません。

 そんなことを考えながら、翻訳、大学での仕事をこなしています。不安もあり、ぼやきも出ますが、結局のところ、今現在の生活を楽しんでいることには変わりはありません。

 先週の金曜日、大学の最寄駅からキャンパスまでスクールバスを使わずに、40分余りかけて徒歩で行きました。普段、バスの車窓から見る風景も、ゆっくり歩きながら見ると違って見えます。春の息吹をところどころで感じ、気分も軽やかに一日を過ごすことができました。感謝です!

先週の後半から本格的に副業の講義が始まり、生活リズムが少しばかり変わりました。副業とはいえ、給料をいただいている以上、いい加減なことはできませんよね。私自身、いい加減な人間ですが...。

前年度に比べて、今年は奇跡的に講義が一コマ増えて若干の収入増になりました(二万円位ですが)。この点はとても有難いことですが、その代償は結構、大きかったです。

私の場合、通勤に片道、ドアトゥードアで三時間半はみておかないといけません。講義は二限目から始まりますので、七時台前半の電車に乗ることになります。私自身、その三時間余りの時間を翻訳にあてようと考えていますので、“座る”ことが前提となります。

しかし、驚いたことに七時少し前に駅に着いてみると、目眩がするほど人で溢れ返っているではありませんか! 世の中、皆さん、忙しく働いているようです。皆さん、朝からお疲れのようで、総じて不機嫌そうな表情を浮かべているように感じました。私とは無縁な世界ですね。車内、もみくちゃにされながら、結局のところ席に落ち着くことができたのは、副都心線の小竹向原駅を過ぎてからでした。翻訳作業ができたのは僅か五十分程度でしたが、“塵も積もれば山となる”わけですから、五十分もやれて良かったと考えるようにしました。

メローな雰囲気の電車内で、時折、車窓から景色に目をやり、創作活動をするというのが、私にとって理想ですが、先日のような殺伐とした雰囲気でやるのも悪くないと思いました。というのも、ちょうど今、翻訳している作品の舞台がここ東京と何ら変わらない大都会(百年以上前のブラジルの大都会ですが)であることから、大いに翻訳の色付けに有用であると考えているからです。

兎にも角にも、どんな状況であれ通勤翻訳を楽しんで行きたいと考えています。