「差別をなくそう」とか
「みんな平等だ」とか
そんな言葉は当たり前のように私たちの周りにあふれている
でも、私にとってそれは偽で
私は私を「差別されるべき人間」だと考えている
もし、自分の恋人がオウム真理教の人だとわかったら
多くの人が別れるだろう
もし、知り合った人がイスラム国の人だとわかったら
連絡するのをやめるだろう
それは信条による差別に違いない
世の中の人はみな「差別をなくそう」とか簡単にのたまうが
その心に差別の心は本当にないのかと聞いてみたくなる
私自身、教師として道徳も扱う
正直、学習指導要領の通り教えることは苦しくて仕方がない
私の両親は宗教を信仰していて
私が気付いた時には、私もその宗教の教えを学んでいた
小学生の頃は教えの通りに生きることが生まれた意味だと思っていた
中学生になると少しずつ「私」と「教え」とがずれ始めた
高校生になると苦しむ毎日だった
「消えてなくなってしまいたい」そう思っていた
ある夏の真夜中に親を起こし、宗教をやめることを話した
「俺がどんな気持ちで生きていくことになるのか考えていたのか
そんな中途半端な気持ちで俺を産むな」
そう言って両親を泣かせてしまった
私の親の宗教は比較的ニュースにもなった問題のある宗教で
ネットで調べても危険度が高いと出てくる宗教だった
それでも否定できないのは
私の考え方や、生きざまの中にその「教え」があるということ
その宗教の教えを持った人間が教師となって
世の中の人の大切な息子、娘を教えている
そんなことが知れたら、辞めろと言われても仕方がない
だから、本当の私は「差別されるべき人間」
「教師という職にはついてはいけません」と言われても仕方のない人間
そう思っている
でも、教師を辞められないのは
希望であり未来である子どものために
命を削ることができて
共に笑うことができて
親とのことで苦しんでいる子どもたちに
「何かあったら言ってよ」
と言える自分のこれまでの歩みがあって
それは他の多くの教師にはできないことだと思っているから
そして何よりも
自分の生きる意味がここにあると思っているから
未来ある子どもたちのために、命を削り続ける
そう生きたいと 生きるべきだと思っているから