あるとき、

わたしは、

 

罪悪感なんて、

手放そうとしなくていいんだビックリマーク

 

という結論に至ったのです。

 

そもそも

自分の中に張り付いている

何かの思いを

自分の意志で

手放すなんていう芸当は

できないんだと気づきました。

 

それまでは、

 

意志の力で、

いや念力で

とにかく決意して、

この罪悪感という名の

エゴを

 

自分から

えいっと

力まかせに

ひきはがさなくてはならない

と思っていました。

 

 

”自分を愛するために、

 罪悪感は手放しましょう”

 

といった

“自分を愛するセオリー”

よく言われていますよね?

 

自分を愛するために

罪悪感を手放す

というセオリーは正しいです

 

でも、これを

“マスト”(義務)

にしてしまったら

逆効果。

 

わたしのような人間は

罪悪感は

手放さなければならない

(義務、マスト)

ととらえることで、

 

こんどは、

 

罪悪感を手放さない罪悪感

に陥ってしまうのでした。

(ややこしい・・・)

 

 

ここから

抜け出すことができたのは

 

罪悪感は

わたしのような

アホな人間が

やらかして当然で

起こるべくして起こった

 

単に

原因の結果

 

自然現象

 

 

だと

ととらえたときでした。

 

そもそも

わたしは、

単に愚かで単純な

人間じゃないか。

数学の通知表だって2だったし!

忘れ物はしょっちゅうするし!

なにかと間違えるし!

 

なんでそんな

必ず毎回間違える、

がデフォルトの

不完全もはなはだしい

自分が

 

“一切罪悪感は起こさない”

完璧人間になれ!

自分に強いてるの?

ムリに決まってるじゃん。

 

ふりかえれば

 

おギャーと生まれた瞬間から

言われているのは、

 

○○しなさいの連続

 

知らず知らず

できなきゃいけないという

マストな感覚を

自分の中に植え付けてきちゃったのかも。。。

 

自分ができなければいけない、

できなければ罪、

っていう信念

これは

ひっくり返せば、

 

自分は

神様レベルの

お釈迦様みたいな

完全無欠になるべき人間である、

という信念の保持者だったということになる。

 

はい、

わたしは実は

不完全さを許さないという、

巨大なるエゴの持ち主

だったのでした!

 

でも実際は

わたしは

不完全な存在以上の

何物でもない。

まちがえてなんぼの存在。

 

川の水が上流から下流に

流れるように、

風が吹くと木の葉が

揺れるように、

火をつけると紙が

燃えるように、

不完全な心から

不完全な結果が生まれている。

 

できない、まちがえる、ことは

単なる自然現象。

あたりまえの現象でした。

 

心に感じる“罪悪感”は

自分の意志での

手放しは無理ビックリマーク

 

自分を責める

気持ちが起きたら、

 

なんか起きちゃっているな―

 

とただ認識して、

 

宇宙に解体をお願いお願い

おまかせすることが

大事だったのでした。

 

自分の意志で

罪悪感を

手放す能力なんてないから

 

起こるべくして

起きちゃったと

ただ認める

 

それをすると

なぜか

楽になる自分がいるのでした。