わたしの娘が幼児シュタイナー教育を受け始めて一年が経ちました。

その運営母体である「ひびきの村」にてウテ・クレーマーさんの講演会がありました。


【ウテ・クレーマーさんについて簡単にご紹介】

・27歳の時、ドイツの青年海外協力隊のボランティアとして、ブラジル・パラナ州ロンドリーナに派遣され、ファヴェーラ(貧民街)の子どもたちと出会いました。そこで2年間ボランティア活動をしました。

・ドイツに帰ってからも、ブラジルに戻りたいと強く思うようになり、シュタイナー学校の代用教員を3ヶ月、その後シュタイナー教育教員養成講座を受講し、シュタイナー教員資格を取得しました。

・ブラジル(サンパウロ)のシュタイナー学校に赴任。

・ボランティア時代の子どもたちと連絡、ウテさんを頼って若者たちがやってくる。 

・ファヴェーラのこどもたちが訪ねてくる。「何かください。乾燥したパンでも何でもいいから」 

・ファヴェーラの子どもたちを自宅に受入れ、芸術活動を与える。    

・シュタイナー学校生徒とファヴェーラの子どもたちの交流。自宅へのファヴェーラの子どもたち訪問数増加、資金不足に。    

・ドイツ人弁護士が1万マルク寄付してくれる。 

・小さな学校と小さな診療所完成。 

・ブラジルのシュタイナー学校を退職。モンチアズールで活動専念開始。    

・モンチアズール・コミュニティ協会(ACOMA)設立。    

・アントロポゾフィー医師、診療開始。ドイツに一時帰国。 

・ペイーニャ(隣のファヴェーラ)にも学校、保育所建設。 ひびきの村サイトより




私はこのウテ・クレーマーさんについて講演会のチラシを頂くまでこの時まで知らなかったのですが、頂いたご案内を見たときに「行かなきゃ!!」という電流が走りました。


それはなぜか?

一つには「ブラジル ファベーラ(貧困街)」へコミュニティを作った。ということ。


私はとある番組でブラジルのスラム街(ファベーラ)の存在を知っていました。私が見たのはリオデジャネイロのファベーラで、夜は銃声が飛び交うこともあり、非常に危険だけど、日中子どもたちはプールに入ったり、外で遊んだりはできていると。貧困に苦しむスラムのギャングと警察との銃撃戦だってあるし、その中で起こる殺す、殺しあうという緊迫した空気、ロケットランチャーが飛ぶ事だってあるようでした。


ほとんどの場合は、好きでそうしているわけでなく生きるためにそうならざる終えなかったりする。やってやられる世界から、身を守るためにまだ子どもだけど銃を持っていたり、食べるために物乞いをしたり、日本からは想像できないスラムの人々。


今でも尚、そういう情勢は続いているのだけど、このウテさんが始めて訪れた1965年(52年前)というのは、それ以上にとても困難な状態だったはずです。


リオからは随分離れているモンチアズールという場所(ウテさんがコミュニティを作った場所)でその情勢が同じかどうかは分かりませんが、「ブラジル ファベーラ」というのは私の中でとても大きく残っていたのが、頂いたチラシから思い出しました。


それと、もう一つ。私のお爺ちゃんはお坊さんで、良くブラジルに行っていたそうです。それはブラジルの貧困の事情を知っていたのか?どうかまでは定かではありませんが、浄土真宗の普及のためという事で、何度か訪れていたというのが心に残っていました。それに私の生まれ育った静岡県浜松市は、日本の中でブラジル人が多い地域で、なぜか親近感があったのです。


まあ、いろいろなキッカケがあり「行かなきゃ!!」となったのですね。


9:00から17:00までの長いワークショップでした。

ウテさんの講演だけでなく、ひびきの村の運営者でもある関さんによるオイリュトミーワークやひびきの村で作って頂いた美味しいカレーを食べながら参加者の方と談話したり、初体験のカポエラをしたり!

ただその講演を受け取るだけでなく、様々な刺激を受けました。ここには書ききれないほどに。


今回はウテさんのお話を聞いて、私が感じたことを書き留めておきます。

おそらく、私はウテさんのエネルギーに触れたくていったんだと思いますが、ファベーラ(貧困街)の中でシュタイナーの考えをもとにコミュニティを作り上げていく、ゼロのところからの積み重ねの苦労を直に聞くことが出来るこれは生きた財産です。


コミュニティは一人が二人になった瞬間から始まるのだと思いますが、夫婦でさえもそのコミュニティというのは難しいのに・・・それが何十人、何百人、何千人と・・・それを束ねていくことが出来るのはなぜなの??

どんな苦労があったのか?なぜそれが出来たのか?知りたいことが沢山ありました。


ウテさんが「私はこれをやる為に生まれたんだ」とお話ししたときにはとても共感しました。


「私はなんで生まれたの?」「生きる理由とは何?」


自分の魂と繋がり、それがわかり生き抜いて行くというのは、これほど強みはないと思います。


私自身も「私はなんのために生まれたのか?」を知っているからこそ・・・すっごくウテさんと繋がることができたし、自分の中に描かれている未来の答えあわせをしてもらっているような感覚になり、途中涙が溢れて来ました。


いろいろな話を聞く中で、私の中から湧き上がっては消えない思いがありました。


ウテさんは、「貧困」という問題と向き合って来たのですが、これは見方にはよっては何をどうしていけば良いか、人間的に分かりやすいなと感じたこと。


貧困がなくなるためにはどうすれば良いか?そこには一つには「豊かになること」という解決方法があるのですが、その豊かというのはここでは「物質的な豊かさ」が大きく占めているかなと思いました。


食べることが出来る、着ることが出来る、学ぶことが出来る、医療を受けることが出来る、住むことが出来る・・・・などかな。


人は貧しいところから、そうやって豊かになって行くと幸せになるのでしょうか?


それは突きつけられた問題でした。今の日本を比較したときに、おそらく想像以上の物質的豊かさがあるからです。


これはきっと戦後の日本もそうだったはずです。

何もないところから得るというその時は喜びさえも分からぬままただ生きて行くのに精一杯。


では、物凄くありふれている今の日本の子供達。多くのものがある中で何を喜びに変えているのだろうか?こんなにも豊かで不自由がないはずなのに、生きる苦しみを持っている子供達がいるのは、何なんだろう?


世界で一番若者が自殺をする国、日本。


何を苦しく思い、若者たちはこの世を去って行くのだろう?


生きる喜びというのは「物質的な豊かさ」にある訳ではないと思うのです。


ウテさんや戦後の日本は「足し算」方式で、豊かさを追求し物を増やして来て、そこに生きる喜びを見出して来た・・・そのような傾向にあると思いますが、今、子供たちに必要なのは


「引き算」方式で、無いところにどんな生きる喜びが隠されているか、見出していってあげることだと思います。


その答えは、私は「自然とつながること」だと思います。


水がない、食べる物が無い、着るものがない、家が無い、

無い無い生活を体験して、そこからいまある世界と照らし合わせ、幸せとは何かの体験を重ねて行く。


だからこそ、野外教育というのは「今の日本」には欠かせないのでは無いか・・・

と思います。


私の向かう先というのはそこだった訳ですが、その答えあわせをこのウテさんとの出会いによってできたのかな・・・と私は受け取りました。


という事で・・・参考までにこの記事です。


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