今日はこのヴィーナスサークルにもってこいの記事を見つけてしまった!!

さっそく考察したいと思います。。。。

参考にさせて頂いたのはこちら

男らしさ、女らしさに悩む人の「自分らしさ」の育て方
$ゔぃーなすちゃんのブログ


①人が自分の性別を意識するのは、3歳ごろからとされていますが、この幼児の頃から、親が無理やり男らしいこと、女らしいことを強いたりすると、子どもは本来の「自分らしさ」を出せなくなってしまいます。すると、自我に目覚める思春期頃には激しく荒れて、結局は親の希望と逆行する趣味や生き方を志向していくことも、少なくありません。

これは、良く分かります。私も子供頃は「女らしさ」に納得がいかなくて、小学校の時はスポーツ刈りをしたり、スカートをはかなかったり、回りに言われれば言われるほど、反発していたものです。
幼稚園や小学校では女の子が赤、男の子が黒、のような色分けや、男女差別のようなものを幼いころに感じていたように思えます。
先生からは良く「もうちょっと女のこらしくしようね~」なんて言われていたっけな・・・笑


「オスカル」に象徴される性別否定の影響

女性らしさを否定されて育ったオスカルの心情とは?
自分の性別を否定された場合、なおさら「自分らしさ」を見失ってしまいます。

やはり物心のつく頃から、「男(女)だったらよかったのに」「男(女)っぽい子って何かイヤ」などと自分の性別を否定し続けられると、親の気に入る性別に合わせようと、無理に努力をしてしまうことがあります。

その象徴的な例が、漫画『ベルサイユのばら』の主人公である男装の令嬢「オスカル」でしょう。この主人公は女として生まれながら、将軍の父に男として育てられ、父が期待する「男の中の男」になろうと頑張って、エリート軍人に昇進します。しかし、同時に女性としての自己矛盾にもぶつかり、「男を装って生きる自分」のアイデンティティに深く悩み続けるのです。

『ベルサイユのばら』が発表されたのは70年代前半ですが、この頃は折しも欧米からフェミニズム論やジェンダー論が紹介され、それまでの日本的な性役割の再考が促された時代です。そんな時代に、このオスカルの生き方は、「女性の可能性」を考えさせると同時に、「性役割を強制される悲劇」をも考えさせる衝撃的なメッセージを与えました。


参考までに

フェミニズム論
男女同権を実現し、性差別のない社会をめざして、女性の社会的・政治的・経済的地位の向上と性差別の払拭を主張する論。 女性差別の原因や構造を理論的に解明し,女性を抑圧から解放することをめざす思想や哲学を指す。

ジェンダー論こちらから転載
ジェンダーというのは、最近高校で習っている方も多いかと思いますが、普通に訳すときは「社会的性差」と訳します。対立する概念は「生物学的性差」で、例えば子どもを産める・産めないというのは生物学的に決まっていることです。しかし、私達が「男だからこうしなきゃいけない」「女だからこうしなきゃいけない」と思っていることの大半は、生物学的に決まっていることではなくて、社会的に人がそう考えていることにすぎない。人がそう考えていることなら、人と人とが相談して変えていくことができるのではないか。ジェンダーというのはそういった生物学的決定論から自由になるための爆発力・破壊力をもった概念なんです。ジェンダー論はそのジェンダーをキーにして発達していったさまざまな学問の総称になります。




ふむ、女性が男性化してきた原点はこういった所からですよね・・・
女性が社会で活躍することが、今の現代では当たり前ですが、以前の日本であれば様々な問題を抱えていたんですよね・・・
その過去の概念が、どういう過程で覆ったのでしょうかね・・・


ただ、女性が社会で活躍する一方、女性のいわゆる生物学的な部分は確実に異変が起きているんだと思います。

初婚が遅くなったり、初産が遅くなったり、女性の婦人科系の生理的疾患が増えたり・・・

子供に対しての虐待が多くなったり、子供たちのいじめ問題、自殺等、社会の乱れが女性の男性化と関係あるのかなんて分かりませんが、各々の家庭で家族が一つになるあるいは、核家族化の促進
も十分関係あるのではないかと思います。

全部が全て良くなる訳はなく、世の中は相対的に出来ている事がよくわかります。

それを思うと、弁当男子や、イクメンなどの、男性の女性化(最近では男性もメイクや、ネイルをするんですよね・・・男性専用の化粧水も出たり・・・)
もこの社会の相対的な仕組みの結果なのでしょうか・・・・

何が原因かなんて答えはありませんが、考える余地は十分あるとおもうのです。


いい悪いかなんて評価するんではなく、過去、現在、未来と客観的に社会的な女性のあり方を考察する必要があると、そういったことをここでは言いたいのです。