गुरु पूर्णिमा


Guru Purnima


グル・プールニマー


2019年7月17日の満月は、『グル・プールニマー』と呼ばれるインドの伝統的な祝祭日にあたります。✴︎インドでは7月16日。

この日は、グル (導師・教師) を礼拝し、感謝を捧げる神聖で特別な満月です。

グルの「グ」 は「暗闇」「無知」を、「ル」は、それを「取り除く」という意味があり、このように「グル」という言葉自体に、弟子や生徒から無知蒙昧を取り除き、光明に導く師という意味が込められています。
この無知蒙昧は、世俗のマーヤー (幻) を示しています。本来、自分が神である、魂であることを悟ることなく、自分は神から分離した肉体的存在であると思い込むグラマー (幻) です。

私たちは、この世俗の世界に取り込まれ、本質 (真我、魂の光) を見ることができません。ですが、霊的な教師は、生徒を無知から引き上げ、真理へと向かわせる叡智を持っています。


『グル・プールニマー』は、インド太陰暦のアーシャーダ Ashadh (アシャッド、アサド) 月の満月の日 (グレゴリオ暦の6月の終わりから7月の始めにあたる) に祝われます。

この満月日は、特に霊的なエネルギーの満ちる日で、新たに霊性修行を始める、さらにサーダナを深める (霊的向上を目指して精進する) ための理想的な日です。

インドでは古代より、霊的な精進にはグルと神の恩寵が必要不可欠であり、グルと神 (主クリシュナ) の慈悲がなければ、バクティ (神への信愛・親愛) の種✴︎は栽培できないと言われています。
✴︎また、この種は仏教で言うところの菩提心の芽生えでもあります。

伝統的に、霊的な悟りは、霊的教師の特別な恩寵がなければ不可能とまで言われています。神を愛することも、また神の恩寵によるものなのです。


フリダヤ、ハートの聖なるグル

そして、このグルは、私たちの中にも存在しています。目に見えぬこの内在のグルは、全知全能で遍在です。

どこか遠くへ探しに行く必要もなく、すでに万物と我が身のうちに宿っているのです。

グルのもう一つ意味は「属性や形を超越した者、至高の神 (ブラフマン)」を表しています。スワミは、至高の神が自分の内にあるのだから、教師を探し求める必要はないと伝えています。

この心のハートの奥にフリダヤと呼ばれる決して穢 (けが) されることのない、清らかで美しい神聖な愛に満ちた蓮華が輝いています。

ですが、私たちの心が常に揺れ動いているので、水面に映し出されて揺れる水鏡と同じように、この不動の実相を体験することができないでいます。ですから、このような私たちの心は、満ち欠けする不安定な月に例えられています。

サンスクリット語では、この霊的なハートを〝フリダヤム〟 と言います。このハートは、霊的なエネルギーセンター (中心・核) であり、真我の坐す、神の住まいです。ですから、内在の神、ハートの内在者を「フルダヤ・ニヴァースィー」と呼びます。


さらに人間の内には「フリダヤ・アーカーシャ」と呼ばれる内的空間があり、そこには太陽に例えられるブッディ (理智) と、月にあたるマナス (心、マインド、思考器官) が存在し、ハートにはフリダヤという清らかな池があるとスワミは言われます。

✴︎秘教によれば、私たちの身体の物質は太陽系と月系のピトリス (微細なエレメンタル) で構成されており、また、私たちの身体のプラーナの導管であるナーディ (経絡) も、イダー (月) とピンガラ (太陽) とスシュムナー管で成り立っています私たちは、月と太陽の陰陽のエネルギー (質料) で構成されています。ちなみに、ハタヨガの「ha」は「太陽」、「ta」は「月」を表しています。

フリダヤは、サンスクリット語のフリド hrd हृदय:清涼な池、その中に神がおわす :アヤム  ayam अयम्  (の複合語、連声:サンディ) で構成される、心の奥にある清浄なハートを意味しています。その他、フリドには重要な中心臓器である〝心臓〟の意味もあります。

また、この〝アヤム〟は、アートマ (真我) としての自己を表しています。他にも、Hridフリ(ハート)+ दया daya ダヤ (慈悲・慈愛)=Hridaya フリダヤと解釈されます。

ハートが蓮華に例えられるのも、御仏や神々が蓮華の上におられるのもここから来ています。蓮華の花は、泥中からいで、その泥に決して染まることなく美しく花開きます。フリダヤは、清らかで非常に慈愛に満ちた神聖な場所なのです。

✴︎「般若波羅蜜多心経」は、サンスクリット語で「プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ、प्रज्ञापारमिताहृदय、Prajñā-pāramitā-hṛdaya」の音写です。この「心経」のフリダヤも「心」や「核」を表しています。仏教では「智慧の完成」という解釈です。この智慧とフリダヤの慈悲は切り離すことのできない関係にあります。仏陀は遥か遠い前世から積み続けた慈悲の行により、尊い智慧の悟りを得ました。この愛 (慈愛) と光 (智慧) は、神の様相を表す中核です。


実はこの霊的なフリダヤは、胸の右上にある霊的ハートセンターにあります。聖書には「賢者のハートは右にあり、愚者の心 (ハート) は左にある」と書かれています。また秘教も、スワミも同じように語っています。このように肉体の心臓は左ですが、霊的な心臓は右の胸にあります。


「月は心(マナス、マインド)を司る神です。月は、ハートの中にある空(フルダヤ アーカーシャ)で、涼やかに、安心感を与えながら、永遠に、完全に満ちて輝いていなければなりません。外の世界の物理的な月は満ち欠けをしますが、心は変化や気分に対抗すべく訓練されるべきです。内なる月には何の染みもありません。内なる月は常に満ちており、勝利を得た霊性の求道者にとっては、いつも満月です」
シュリ・サティヤ・サイババ


スワミの静かで穏やかな声

ある早朝 (スワミが肉体を去られてからか、去られる直前) 、私は、目覚めてボーッと宙を眺めていました。天井に近いところにはスワミのお写真を配置しており、そのお姿をなんとなく眺めていた時のことでした。

その時、突然スワミの声が聞こえて来ました。

「自分の力を信じなさい」

私は、これを耳にした時、ちょっと戸惑いました。

「私の力を信じなさい」ではありませんでしたから。

なぜなら、私は常に神の力、絶対的なスワミの力を信じていたからです。それは絶大な力でした。
スワミの名のもとに行うことは、必ず成就する、スワミの名を呼べば、必ず何らかの助けや返答がありました。

それに、スワミが常におっしゃるように、私は「自分の」というような、あまり自分 (自我) に意識を向けないようにしていました。

ヨーガ (行) や霊性修行や帰依、師弟道というような求道を知らない人には、わからないかも知れませんが、教えに従う者には、全託 (サレンダー:surrender 自己放棄) というものが存在します。自分意識を放棄して神に預ける、このような意識です。たとえ生徒の行いや信念・熱意が不十分だとしても、神の意志は自分の意志と一致したものであるということなのです。

最終的に、生徒は (人は) 自らを主に明け渡すことで自己放棄に至り、悟りを得て主なる存在と一体となります。(もちろん、私自身はまだまだ不十分であると言うことを自覚しています。)

「私たちは神の意志によって、神の意志を通して生きています。私たち一人ひとりの中で愛として働いているものは神の意志です。〝すべての世界が幸せでありますように〟と祈るように促すのは神です。というのも、神は私たちに、私たちの崇める神、私たちの愛する神、私たちが生きる拠り所としている神はすべての生き物の中に愛として存在しているということを気付かせるからです。」シュリ・サティヤ・サイババ

ですから、自分の力と言われて戸惑いました。

ただ、この「自分の力」とは、内在の英知、真我の力だろうと思います。

スワミは、肉体を去られる10年ほど前に、私を崇めないで、私の姿ではなく教えに、集合意識ではなく自分の超意識に集中しなさい、と書かれた長いメッセージを、ある側近のお一人に託して非公式に発信されたことがありました。

(注) 非公式のメッセージについて 兄弟姉妹や同胞のゴールは一緒でも、各々の役割が異なるため、道程で時折このようなことが行われます。各々に必要なメッセージがやって来ます。神もグルも、全ての存在を等しく大切に思われていますから、全ての出来事は、差別や優劣とは全く無関係です。そのように感じるのも、また、私たちの幻 (マーヤーやグラマー) です。

グルの姿を追わずに、普遍の真我の力を信じる。

私にしてみれば、当時テレパシーのように聞いたこの言葉は大変重大なメッセージでした。


「すべては神の顕れです。あなた方はスワミが持っている力を自分も持つことができるのかと疑問に思うかもしれません。私に従いなさい。その力は必ず得られます。その力はあなた方の内にあります。しかしあなた方はそれに気づいていません。あなた方は至福を体験したいと思っています。もし本当にスワミに従うなら、その至福が自分の内にあることに気づくでしょう。それだけではありません。どこに行こうとも、自分の周り全てがその至福に満たされていることに気づくでしょう。至福を物質界に見出すことはできません。至福はすべてあなた方の内にあります。どのような状況にあろうとも常に自分自身が神であることを思っていなさい。そうすれば、あなた方は神と一つになります。」
シュリ・サティヤ・サイババ 1996年7月30日の御講話より
http://www.sathyasai.or.jp/sn/sn55/gurup55.html

「唯一なる神より他にグルはいません。あなたが自分をただの人間だと思っている間は、あなたは自分を弟子と見なしてもかまいませんが、あなたが自分はアー トマの化身だということに気づいた時、あなたがあなたのグルになります。人々は、グルや教師の後を追いかけて、自分を思い違いして、ブラフマンを忘れています。自分自身に庇護を求めなさい。あなたの実体を認識しなさい。それこそが正しい道です。そして、それこそがグルを明らかにするための方法です。」
1991 年 7 月 26 日の御講和より  サナザナサラチ45号


この「私に従う」ということは、追うこととは異なります。スワミ (導師) の霊的な教え、神性の普遍の真理に従う 、それらを学ぶことにより、最終的に自分自身が自立するということなのです。グルは、弟子や生徒 (または帰依者) が目的地へ到達するために、各人に適した方法を用いて、純粋な愛と智慧の道を示して守り導きます。


神聖なチャトル・マーシャ
不死の聖仙ヴィヤーサと膨大なヴェーダ

暑いインドではこの頃より4カ月間の雨季に入るため、農民たちにとっては恵みの雨をもたらす喜ばしい祝祭日でもあります。

ヴェーダのカルマ・カーンダには、雨季の時期の4か月間の修行は、神聖な『チャトル・マーシャ Chaturmas (チャトル caturは4、マーシャ masa は1カ月)』と呼ばれる、サーダナ (霊性修行) やタパス (苦行) に適した期間として記されていることから、多くの修行者がこの時期に励んで精進します。インド時間では7月12日のエーカダシーから、このチャトル・マーシャが始まっています。

この雨季の時期は、涼んだ森の虫たちが動き回るため、修行者があちこち動き回って、その虫たちを踏んでしまわないように、定住して修行を進めるという慈悲深いアヒムサ (非暴力) の配慮もあるようです。

✴︎日本の役行者 (えんのぎょうじゃ) は、地面を踏み荒さないようにとの配慮から、通常では考えられない不安定な一本下駄を履かれていました。真の修行者はアヒムサで慈悲の心を表しています。


春の満月は、神の大計画により人類のエネルギーを司る役目を担う霊ハイアラキーにとって、重要な意味を持っていましたが、個々が霊的に精進し、神の悟りへと向かうインドの風習では、この夏のエーカダシーのチャトル・マーシャを皮切りに霊的な行事の多くが続きます。

このように、ヴェーダの伝統に則り、この雨季の『チャトル・マーシャ』に、サーダカ (修行者) は、各々のグルのもとに赴き、不死の「聖仙ヴィヤーサ」の創作した究極の実在に関する貴重な経典『ブラフマ・スートラ (ヴェーダーンタ✴︎・スートラ)』について研究し、ヴェーダの討論に従事していました。

✴︎「ヴェーダンタ (=ウパニシャッド)」の語源は veda (ヴェーダ) の anta (終わり) で、ヴェーダ (二元論) の末尾となる最終的な教説を意味し、解脱に関する梵我一如 (ブラフマン=アートマンの不二一元論) の至福の知識が収められています。

この聖仙ヴィヤーサは、膨大なヴェーダの知識体系を4つヴェーダの編纂にまとめ、その他にも18のプーラナ (古代インドの伝説集)、マハーバーラタ、シュリマッド・バガヴァタム (バガヴァタ・プラーナ)の著述によって、人類に偉大な貢献をした一番最初のグルとして尊ばれています。そのため、この『グル・プールニマー』は『ヴィヤーサ・プールニマー』とも呼ばれています。また、賢仙ヴィヤーサは、このアーシャーダ月の満月の日 (プールニマー) に生まれています。

聖仙ヴィヤーサはアートマンの原理を悟り、森羅万象に真我 (アートマン) が宿っているという不二一元の宇宙の真理を解き明かしました。

ヴィヤーサは、後に来るカリユガの時代における人類の霊的衰退を見越して、霊的進化の教えの礎を築きました。

ヴェーダは、世界の繁栄と平安のために天 (デーヴァ界) からもたらされた神聖なマントラの集大成です。

この膨大な量の「ヴェーダ聖典」は、古代インドの紀元前6世紀ごろ(✴︎誤表記) の発祥で、文字化はせずに全てが口伝です。

文献では、最古のリグ・ヴェーダが紀元前1500年頃と言われていますが、聖賢ヴィヤーサは紀元前3800年ごろに存在したとスワミは伝えていますから、文献の推測とは違い、成立はさらに遡ります。

この口伝で、弟子は、微妙な音の変化を慎重に聞き分け、唱えられた言葉を正確に理解していなければなりません。

スワミは、ヴェーダの音声をすべて表記できる文字は一つも存在せず、ヴェーダに含まれている多くの言葉は、書写不可能であると語られ、インド全体でも、ヴェーダを正確に唱えられる人は、ほんの一握りしか存在しないとまで言っています。

この師弟が口伝で伝承した膨大な量のヴェーダは、バラモンのみならず、修行者が学習することも困難な状況だったのでしょう。その様に、各地域、各々に分散していて統一性のない状態を、ヴィヤーサ仙が見事にまとめて編修したのですから神業です。不死と言われるのも当然のことでしょうか。電気も通信手段も何もない不便な時代にあってのことなのですから。

「それぞれのヴェーダには、 いくつかのサークハ (部門) とウパサークハ (小部門) があります。『リグヴェーダ』の20の部門と21の小部門の中で、現在残っているのは3つだけです。同様に、『ヤジュルヴェーダ』の96部門のうち、時の破壊に耐えたものは2つだけでした。『サーマヴェーダ』には千の部門がありましたが、今残っているのは3部門だけです。」

シュリ・サティヤ・サイババ『ヴェーダに関する御講和』
〝ヴェーダをないがしろにすることが霊性の衰退の原因〟より


19世紀に、数学者のティール・タジー(1884-1960)が、この現存する「ヴェーダ」を解読して16巻にまとめましたが、何とすべてが紛失し、晩年に記した「ヴェーダ数学」のたった1冊だけが残ったのです (ただ、勿論ほんの僅かにヴェーダの一部が残っています)。このヴェーダ数学は、インド式算数と呼ばれて、日本でも一時期話題になった計算方法です。

✴︎残念なことに、このヴェーダ式数学も、現在ではあまり使われなくなってしまったそうで、かつての数学大国インドも、今回初参加のPISA (世界の学力調査) では振るわなかったようです。

ヴェーダのマントラの音は、シャブダ ブラフマン (音に顕現した神) と呼ばれ、計り知れない力が宿っています。
現在、世界中が混乱し、不正がはびこり、環境が破壊され、大気も食物も汚染されてしまった原因は、ヴェーダがないがしろにされたためだと言われています。

古代の聖賢たちは、全世界の大気を清めるために、森に移ってヴェーダの力強いマントラを詠唱し、神の栄光を歌い、世界中の大気を浄化していたのです。

✴︎古代は、霊的影響力のある数少ない人々だけで世界を安定させることが十分可能な時代でした。その後、ダルマ (正義) 率の没落により、偉大な浄化力を持つ、大勢の賢者や聖者の存在が必要になっていきました。

音 (言葉) の及ぼす効果は、これほど途方もない影響力を持っているのです。

ですからスワミは「ヴェーダを規則的に学びヴェーダの指示を実践するなら、人間はあらゆる種類の富を授かり…ヴェーダには人の生活と運命を支配する基本的な原理が含まれる…ヴェーダは全人類の幸福のための神からの贈りものである」と語られていました。


古代の聖賢・聖仙たちは、現代まで続いたカリユガの暗黒時代 (人類のダルマの衰退) を遥か昔から予見して祈り、神々より啓典を授かり、人々にアヴァターの到来を告げ、霊的な衰退を防ぐべく、様々な手段を講じて来たのです。


『ヴィヤーサ・グーファ』と
神々の聖地『デーヴァ・ブーミ 』

インドのガンジス川の支流、アラクナンダー川上流にある聖地バドリナート (標高3096m) には、ヴィヤーサがヴェーダを伝えた洞窟 (ヴィヤーサ・グーファ) があります。太陰暦の5011年前にヴェーダを編纂したことや、少し離れた隣の洞窟 (ガネーシャ・グーファ) では、ヴィヤーサにヴェーダの仕事を依頼されたガネーシャが文字に書き起こしたという成り行きが聖典に記録され、聖地として尊ばれています。

インドのグルプールニマのビジュアルには、ヴィヤーサ仙とガネーシャ神が向き合って、ともにヴェーダ編纂の議論を講じている何とも微笑ましい?様子がよく描かれています。


このようなインド北部 (ウッタラーカンド州) ヒマラヤ周辺の神聖な場所 (チャール・ダーム:インドの四ヶ所巡礼ー四大聖地の寺院がある) は、古代からデーヴァ・ブーミ Deva Bhoomi, Deva Bhumi (The Land of God=神々の住む場所) と呼ばれ、かつてこの惑星が、神聖で霊的な愛と慈悲、献身 (奉仕) の中心 (エネルギーのセンター) であったことを物語っています。ここは、地球のハートセンター (フリダヤ) にあたる神聖な場所だということなのです。霊ハイアラキーがハートセンターであるのと同じように。

ここには、多くの巡礼者が礼拝に訪れ、修行者が集まり、神について深く瞑想し、神々の恩寵とダルシャンを賜わり、サマーディに至る聖地として、古代から脈々と受け継がれています。

この他にもヒマラヤ周辺の洞窟には、ヴィシュヌ神殿の他、シヴァ神のファミリーを祀るパタルのブヴァネーシュヴァラの洞窟神殿など、神聖で霊的なエネルギーに満ちた、修行者や巡礼者の聖地が数々存在しています。

彼らデーヴァ (神々) の存在は、エネルギーで感じ取ることはできますが、その御姿は、私たちがエーテル・アストラル視力で拝見することのできる御姿です。神聖で慈悲深いデーヴァの存在を伝える聖仙や敬虔な人々が、その御姿とダルシャン (神の拝謁) を受け、人々に伝えています。

この夏、日本も長い梅雨を迎えていますが、そぼ降る雨の中、静かに修行に励む古代の師弟の様子が目に浮かぶようです。

神の繁栄と栄光、世界の平安を願って専心する彼らのような清らかな存在があればこそ、この惑星は守られて、大勢の人々が輪廻の大海を渡り、至福の境地に至ることが可能となったのです。


ここ (このブログ) を訪れる人々にも、グルプールニマの恩寵がありますように。


参考 
Information about Guru Purnima 2019
https:/www.mapsofindia.com/events/india/guru-purnima.html

Guru Purnima
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Guru_Purnima

Guru Purnima – Vyaasa Purnima:

Deva Bhumi
https://www.ramdass.org/devabhumi

Dev Bhoomi Uttarakhand
https://devbuk.blogspot.com/2015/08/why-uttarakhand-is-called-dev-bhoomi.html?m=1

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Sri Sathya Sai Baba  Divine Message

ブリンダーヴァンでの御講和』より

自然が最高の伝道師

このカリユガにも、ちょうどパウンドラカがヴァースデーヴァそっくりに変装したのと同じように、そうした偽者たちが現れています。今では、偽のサティヤ サイ ババたちさえいる始末です。彼らは私と同じ型のローブをあつらえ、髪を大きく膨らませ、写真で研究して私がしているのとそっくりに両手を上げ、私の真似をするために甚だしい努力をして、おかしな姿になっています。「模倣するのはただの人間、創造するのが神である」ということを彼らは忘れています。そうした滑稽な方法でサティヤ サイ ババになろうと努力している者たちは、ただ、人々が神に置いている何らかの信仰を壊しているだけです。彼らは社会の平和と調和を害する不快な害虫です。彼らは自分の周りに自分と似たような虫たちを寄せ集めます。なぜならば、同じ羽を持つ鳥だけが群れることができるからです。こうした「なりすまし」たちは、猿の群れが自滅するとその群れが住んでいた森をも滅ぼすことになるという諺と同じように、自滅に陥って、自分が影響を及ぼしている社会にも破滅をもたらします。

私は皆さんにこう言っておきます。グルを探して、この人について行ったり、あの人について行ったりする必要はありません。思いやりに満ちたハートが神を祀る祭壇です。自然が最高の伝道師です。人生が最高の教師です。神の御業、世界と呼ばれる神の御力と栄光の顕現に対する畏怖と崇敬で自分を満たしなさい。以上が、あなた方にとって十分な教え、そして、十分なインスピレーションです。

1973年1月14日  御講話『なりすまし』より

✴︎インドのバーラ・サイ ババは、サティヤ・サイババのお弟子であることがクレーム氏により伝えられています。筆者記

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満月の大祈願祭について

毎回満月は、天上の霊ハイアラキーで恒例の祈願祭が行われています。ご興味のある方は、過去の満月の記事をご覧ください。

✴︎霊ハイアラキーとは、神の進化の大計画を執行する、大悟された智慧の覚者の一団で成り立つ機構で、この中には、誰もがご存知の仏陀やイエスがおられます。このハイアラキーのリーダーであるマイトレーヤ大聖は、大師・覚者の一団を引き連れて、世界教師 (人類を導く師) としてこの世界 (物質的現象界) に再臨されることになっています。混乱を極める現代世界は、彼らの到来で秩序を取り戻し、平和で豊かな新しい文明を迎えることが予見されています。https://sharejapan.org/




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愛と感謝をこめて


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