ずっとずっと昔、まだ学生だったときに読んだ本に書かれていた。道化師《ピエロ》の話。
サーカスの花形は空中ブランコだったり、綱渡りだったり。華麗な主役に対して道化師は失敗して観客に笑われて、いつも頬には涙の後があって。
でも、実は、道化師が一番テクニックが必要で熟練の方々だという。
というのも、サーカスの技で失敗することはとても危険なこと。大怪我をしたり命を落とすことだってある。フザケてできるようなことではないのだ。だから、道化けるのは、完璧に演技できた後、何処まで崩すか、どうすれば笑いを取れるかのバランスが重要ということなのだ。
かのチャップリンも素顔は聡明でイケメンで寡黙な哲学的な人物だった。渥美清氏、いかりや長介氏、藤田まこと氏、植木等氏、枚挙に暇が無いが、今は故人となった一流のエンターティナーたるコメディアン達はみな素顔は努力家で深い洞察力を持っておられた方々だったと聞いている。
もちろん現代にも素晴らしいエンターティナーの方々は多くおられるが、個々に好き嫌いもあると思うので、敢えてお名前は挙げないでいようと思う。
ただ。ふと思ったのだ。
笑いというのは、少なくとも人に見せるための笑いは、笑われるためのものではなかったはずだと。
自己を甘やかし、誤魔化し、手を抜いた姿を見せつけて、失敗したら、笑いを取ったんだ、という。
少なくとも、私は、そういう笑いは好きではない。
それは、”いじめ”を正当化してるのとどこか似ている気がする。
笑いとは道化とは、呼吸を測り、間を測り、ここぞというタイミングで魅せるものであると思う。その為に、皆、日々研鑽を重ねて芸を磨かれてるのだと思う。
1つの卓越した芸術だと思う。
先日醜悪なパロディを見て、心に思ったこと。
長文おつきあいありがとうございました。