阪神淡路大震災から 29年 | ぷるんのGo55日記

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大阪南部に居住後、自然、野菜、歴史などに興味が湧いてます。
3人の子どもとの日常、アラフィフのボヤキ、挑戦、自分探しの旅にお付き合い頂ければ幸いです…

阪神淡路大震災から29年


休日メインの仕事をしていた21才の私はお風呂も入らず爆睡していた…


5時46分、ベッドが2回縦に浮き上がった

ドーン と音がし、何か爆弾が落ちた?と一瞬思った…その後上下左右に揺さぶられ地震だとわかった…飛んだ食器、割れた一升瓶の醤油を避け外に逃げた


誰かのラジオで震源地が淡路島である事、福井の原発は大丈夫というニュースを聞く…まだ暗い外で何が起きているのか全くわからないが、ガス漏れの臭いがし、水道がまもなく止まった


一緒に住んでいた兄は倒れてきた棚に足を強打したが、新聞社でアルバイトをする大学生だったので、カメラを持ち飛び出して行った。私は知らない人のマンションの一室に避難した。


余震が落ちついてから、近くに住む叔父のマンションに自転車で向かった🚲

叔父は1階が駐車場のマンションに住んでいたが30°位傾いて倒壊していた…車も潰れ叔母が経営していた美容院も全壊、隣の部屋の方も亡くなられた。廊下側の窓の柵を🪟誰かが切って回ってくれ、そこから家族5人逃げ出せたそうだ…叔父は泣き崩れて放心状態だった…大人がここまで泣いているのをあの時初めて見た…


そこに行くまでに見た光景も凄まじく、家は屋根だけ残り毛布に包まれた何かがあった。新幹線のガードが転落し、高層マンションは3階辺りが無くなっている…戦後なのかゴジラなのか、道も真っ直ぐには行けない、目の前に広がる光景は本当の事なのか、わからなかった


宝塚の事務所にも行く、同僚から生きていて良かったと言われた、まだ全員に連絡は取れていないと…揺れでスプリンクラーも作動し、ぐちゃぐちゃな上に水浸しになっていた。2週間後位にタクシーで神戸の職場に片付けに行った。阪神間、特に六甲辺りは全て潰れていた。あと数時間早かったら職場はもうパニックだっただろう。色々な物が倒れ、あり得ない場所に金庫が動いていた。


私は大阪茨木市にある親戚の家に一ヶ月ほど避難させてもらった。仕事が始まってからは西宮まで電車で行き宝塚の事務所まで線路を歩き職場に向かった。途中で🍙を2個1000円位で売る人が現れ人のエゲツなさも知った。炊き出しに来てくれる人も沢山いて、福井の同級生にも会った…社食の出る職場だったが缶詰とかの非常食を食べた。こんな生活なのに大阪は普通に動いているのも不思議な気持ちだった、でも大阪が元気だからこの生活からは抜けられる日がくるとも思えた


今年の能登の地震…

長男はもうすぐ大学の春休みになるので

昨夜ボランティアに行くように話した

私は先日義援金を振り込んだ


今朝は本当に冷え込み寒い朝でした

能登に心穏やかに過ごせる日がきますように…スタースタースター