第15回 江戸幕府が倒れた本当の理由? ~災害編~
皆さんは自然災害が江戸幕府を倒したことをご存知だろうか?
時代の変革期には、天変地異や疫病もそのきっかけとなる事がある。
二度目にペリーが来航した嘉永7年に安政東海地震が発生。震源は南海トラフと言われている部分が動いた。推定マグネチュード8.4の巨大地震。その31時間後に今度は、安政の南海地震が発生。マグネチュード推定8。
関東から東海そして四国九州に至るまでの地域で、建物の倒壊及び津波の被害多数。
安政の大地震が
幕府はこの被害の大きさに元号を嘉永から世のが永く安んじるとの意味を込めて「安政」と改元しているため、嘉永7年に起きた地震が安政の地震と呼ばれている。
それだけでも相当な被害であるのに、翌年の安政2年には今度は江戸で直下型の安政江戸地震が発生。マグネチュードは7クラスだと言われている。
この地震での建物の倒壊はその数を知らず、また地震に伴い火災が発生。特に吉原の被害が大きく客も遊女もかなり死んだという。
関東大震災の時の火災の時も吉原の被害はあまりのひどさに目を覆いたくなる様だったという。吉原の中にある大きな池の中に飛び込んだ遊女が折り重なり、下の人は池の底で水死、真ん中にいた人は圧死、上の方の人は焼死。というあまりのひどさだったというから、安政の江戸地震の火災時の吉原も同じ様なものだったかもしれない。
この安政の江戸地震での死傷者は江戸だけで1万人以上。引き取り手のない死者は向こう両国の回向院が引き取った。
今と同じ様に全国から義援金や救援物資などが集まるところだが、今回ばかりはそうは行かなかった。何故ならこの前年には東海、南海地震が起きているため江戸へ送るだけの余力もなく、幕府は江戸の数か所にお救い小屋(炊き出し所)を設けて対応。
これらの一年の間に全国にわたる被害が出て、なかなか復興も進んでいかないとなると、庶民はどうしても幕府のせいにしたくなるのは仕方がないのかもしれない。
この辺りに幕府崩壊の芽が出てきているともいえる。
翌年今度は台風が江戸を襲う
幕府に運がないと思うのは、この地震だけでもキツイのに、その翌年の安政3年(1856)の秋には台風が今の首都圏を襲う。
この台風は、雨も風も激しく、風で築地西本願寺の大屋根が落ちた。
雨は丸2日間降り続いた。今なら間違いなく特別警報もの。その被害は、台風に伴う高潮が発生。深川、本所から品川にかけての江戸湾沿岸での溺死者多数。家屋の損壊、流失、けが人は数え切れない。
江戸城では、半蔵門の渡り櫓が落ちた。
ちなみに、この時年は13代家定と薩摩の篤姫が結婚している。
しかし何という被害状況。地震、火事の上に台風の高潮の被害とこれでは終末期思想が出て来てもおかしくない。
江戸時代に限らず、天変地異が起こるのは時の為政者が悪いからだ、という考えは古くからあった。
続いてコレラが!
しかしこれだけでは終わらなかったのが幕末。
台風があった一年半後の安政5年(1858)、今度はコレラが大流行した。
長崎に入港したアメリカ船が感染源とされる。コレラは東海道を経て江戸に上陸。
コレラによるこの時の江戸だけでの死者は2万8千人。
コレラと言う病気は、コレラ菌による感染症で、元々インドの一地方の風土病で貿易の拡大に伴ってヨーロッパや日本にまっで広がった。
この菌に感染すると、体の中の水分という水分が体外へ出てしまい、発汗、下痢、吐き気等、それによる脱水症状で早ければ3日程で死に至る怖い病気。
江戸ではあまりの死者数で棺桶が間に合わず、酒樽を棺桶代わりに使用するほどだったという。
ほとんど世紀末的様相である。これでは人々が不安にならない方がおかしい。
この不安にたいする鬱憤が幕府の政治に対しての不満へとつながっていったのかもしれない。
時代の潮目というのは、そこにいる人にとってはあまりに身近かすぎて気付きにくいが、こうした災害や疫病によって、その時代の潮目を推測する事ができるかもしれない。
しかしよくこんな状況状態だったにも関わらず、庶民はよく耐えて復興にこぎ着けたものである。
そういう意味において現代の我々も学ぶことは多い。
(続く)