たんぼとはたけと。ベジスタ信太 -6ページ目

電話

昨晩、もうかれこれ知り合って10年は経とうかという友人と
深夜12時を回ってから、電話で話始めた。

知り合ったきっかけは
我が家のお米を調理してくれているレストランで
我が家のお米を食べてくださったお客さんが
紹介してくれた人物。

今年に入ってからも、何度か電話をもらっていたが
タイミングが悪い時に重なってしまい、話せなかった…。
でも、正直にいうと、その電話がたとえ半年前であっても
昨日のことのように頭の中には残っていて
こちらの気持ちに余裕があれば、いつでも話したい相手だ。

お互いに利害に絡むことが一切なく
ホント、なんでつながっていられるのか不思議だが
それでも一生の友だなと思える人だ。

フラット&リセット。
今、心の奥底に考えていることを素直にぶつけ
彼のリアクションから、さらに自らの奥を探る感じ。
そして、その中に彼のエッセンスが程よく混じり
仕事とか生活とはまた別の、根底の自分をリニューアルできる。
そんな感じの関係な気がする。

彼がいる。そう思えるだけで安心する。
今度時間があったら、必ず会いに行こう。

最近のこと

久しぶりのブログ更新。
先月開催されたオーガニックフェスタのことについては
あまりにもネガティブなことを書きすぎてしまい
公開してすぐに削除したが、RSSで流れてしまっていた。

先月末日から長ネギの収穫&出荷が始まっている。
今週末からは、いよいよ新米の刈り取りだ。
日の入りがみるみる早くなっている気がして
追い立てられるように仕事を切り上げている。
若干、忙しい自分に陶酔している感があり
実はこんな時が、体力気力共に一番危ない。

そんな危機感もあってか
ちょうど仕事で市内に行かなくてはいけない用事があり
うちの奥さんを連れて、途中、野菜の出荷もはさみながら
つかのまのドライブ。往復2時間。
帰り道、お気に入りのコーヒーをテイクアウトし
運転を代わってもらって、ちょっと昼寝なんかもして。

先月?iPhoneをなくしてから(珍しく酔っぱらった末の散々たる結果)
出張の際のメインバッグとは別にサブのバッグを物色中。
すぐに買うことはないのだけれど(迷っている時間が楽しいから)
出歩く際に持ち歩きたい小物をリストアップすると
意外と荷物が多くなってしまうことに気付く。
普段使いの財布と外出用のカードメインの財布。
携帯2台、名刺、メモ帳、折りたたみキーボード。
携帯のコード(USB仕様で軽量化しているけど…)。
そして、手帳。

iPhoneを持ってから、これでもかなり持ち物は減った。
カメラが無くなったし、名刺のフォルダも無くなった。
しかし、さらに減らすことを考えると
どうも手帳がうまく使いこなせていない気がしてきた。
というわけで、「サブバッグを探す」に加え
今年は手帳も、発売以来愛用してきた「ほぼ日手帳」を卒業する予定。
システム手帳とやらも物色しているのです。
あの、中の用紙を取り替えられる手帳です。
自分だけに合った手帳にするべく、色々思案しているのですが
これだけで、年末まで楽しめそうなくらい思案中。
一時期、手帳すらも二冊抱えていたことを考えれば
リフィルを色々工夫することで、とっても便利になりそうで。
しかも、農作業日誌的な役割の部分は
3年分まとめて挟んで、ってこともできるかもしれないわけで
そんなこんなで、楽しいのです。

180度回転。

今年の米価が、想像を絶して下落中。
「想像を絶し」といっても、このような事態は
10年も前から予想していたわけで
ついに来たか!ぐらいの感覚ではあります。
政府にどんなに補償されようと、大きな法人が
生産者を擁護するべく動き回っても
もう農家の手に負える事態ではない気がする。

コツコツと進めてきた野菜の栽培。
来年、いよいよ個人としても、会社としても
野菜の作付けおよび栽培へ、産地として大きな一歩を踏み出す予定。
決して順調な現在があるわけではないが
ポジティブに、前のめりな今が嬉しい。

ジリ貧な生活環境そのものを政府に補償されても
ちっとも嬉しくないし、それでも5年後になれば米価は復活するという
餅の絵をかいた農家の心情は、わからなくもないが
やっぱりわからない。

10年前、就農したての当時。
野菜の栽培を始めないかと誘った友人に
散々見下され、陰口を叩かれていたようだが
今、その友人には口も利いてもらえない。
もう慣れたけど…。

外。

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iPhoneからの投稿

時節

猫も杓子もワールドカップなので、のってみました。

ニュースは、どれも本田一色。
もちろんスゴいんだろうけど
個人的には松井のセンスのみが記憶に残ったなぁ。

今まで解説者なんかが
「このパスが起点となりましたね」とか言うと
そうかぁ?苦し紛れなんじゃねぇの?って思ってましたが
松井選手のドリブルとか、ボールを持って相手を引きつける時間とか
動作の一つ一つが、意味在るように感じられ
テレビ画面を見ていても
松井選手だけが、妙に目に焼き付いてしまいました。

右足と左足の、ちょっとだけ違うパスの精度も気になった。

オランダ戦は、松井選手、マークキツイんだろうなあ。

というわけで、テレビで本田選手ばかり出ていると
妙に違和感があって、しっくりしなかった。

メモ2

根拠のない自信
→努力するということ
→自分とアクションの間に壁を作らない

直接性の原理

日本という古いOSの中では
世界相互依存というグローバリズムの潮流から
どんどん遅れてしまっている、らしい。
もし、それが本当だとすると
日本の自給率が…等という議論は
もはや視野の狭い見方ということになる。

昨晩、初めての方ばかりの会合に出たが
「モデル農村としての大潟村から
 お米を通して、もう一度日本食の素晴らしさ
 大切さを訴えていかなくてはならない」
の一言に、とんでもなく違和感を感じる。
それがお米じゃなきゃいけない理由。
モデル農村=お米に偏った生産。
米余りの時代に、それを喜ぶ方の存在。
もっともっと食べる人が喜ぶことがあるんじゃないか。
政策を身近にする為に
議論を自分に引き寄せすぎてはいないか。
自問自答。

クリーンナップと草刈とさなぶり



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iPhoneからの投稿

メモ1

・時代とともにモノの見方が変わるとすれば
 今、正しいことが正しくなくなり
 必要であったものが不要になる、かもしれない。
 時代と交わることのない
 変わることのない普遍的な価値を携えていなければ
 淘汰されるのは必然か。

・自分の中で、今誰もが求めているであろうモノが
 秋田の場合、いくら探してもみつからない。
 大丈夫なのか、自分の地域のことながら心配になる。

・秋田以外で活躍している秋田出身者を探してみたい。
 業種を問わず、一度集めたらきっと面白い。
 

TVと新聞とインターネット

思いっきり農業とは関係がない。
最近、何度も感じることで
感じながら、生活が変わっていく実感もあるので
その転換点として、ブログに残しておこうと思う。

6、7年前だろうか
事務室として利用している部屋から、TVが消えた。
なんのことはない、他の部屋のTVが壊れ
その代用として、持っていかれたのである。

当時は、部屋からTVがなくなってしまうことに
随分と抵抗があったものだが
今では、それが何によるものだったかも、定かではない。
おそらく好きなドラマでもあったのだろう。

今ではほとんどTV番組を見ない。
せいぜい朝のニュース、夕方のニュース
深夜のNHK(BS)ぐらいである。

そうなる以前にTV番組を見ていた時間は
ものの見事にネットへ費やされる時間へと変わった。
TVがなくなる以前と変わらないメールやインターネットの利用。
加えて、最近ではYouTubeやUstream。
ここ何日かはTwitterばかり。
全てが誰かのフィルターを通さず
ダイレクトに、なおかつリアルタイムで情報が流れる。

TVが不要になっていく。
もちろん緊急時に必要があるのかもしれないが
くだらない、変わらない出演者、変わらない内容の番組を
見る必要性はどこにあるのだろうか。

それに変わって、自分の中で別の存在意義を見いだしつつあるのが
新聞とラジオ。
新聞は、メールやTwitterでの文字の延長として
ラジオは、画面を見続ける際の情報垂れ流しBGMとして。
視覚と聴覚の両方が遮られるTVの存在
なおかつ、何年も内容の変わらないTV番組には
きっともう、戻らないかもしれない。



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iPhoneからの投稿

耕作放棄

昨日から澤浦さんの本を読み始め
まだ読み終えていないのだが
頭のスロットルは開き始めているので
本の内容とは関係なしに想うことを連ねてみる。

昨年まで耕作放棄地だった畑で
昨日、今日と農作業をしている。
耕作放棄地に向かうのは、今年で3年目になるのだから
一年目の草の多さと、圃場の不整備さに慣れてきたと思うのだが
それでも、やはり耕作放棄地である。
事前に土地改良区によって整備されているのだが
あくまでも表向きであって
実際に中に入った人間にしかわからないことも多い。

今日、作業を進めた畑はとにかく石が多かった。
また、水の取り口が完全に畑の下に埋もれていて
掘り出すまでに掘った深さは1メートルは軽くこしていた。
それが辛いという話ではない。

隣の畑の方に伺ったところによると
もう使われなくなって10年以上になるという。
本来、使われていた畑に石などは在りはしない。
石が点在し、時に掘り起こした土からは空き缶が転がる。
まさしく、耕作を放棄されたのだ。
その言葉の意味するところがセツナイ。

元の持ち主は何を思っただろう。
後継者がいなく、借りてくれる人のあてもなく
もしかすると先祖伝来であったかもしれないその土地に
自分たちの家族を養ってきたであろうその土地に
石が転がり、空き缶が捨てられる。
その様子から、耕作放棄という言葉以上の
「諦め」を感じてしまう。
それが辛い。

耕作放棄地を再生することに、きっと色々な意見があると思うが
私は、私と家族を養う為に、その畑に新たな息吹を吹き込みたい。

立ち行かない農家であることが恥ずかしいのではない。
諦めた農家であるという認識すらないのが恥ずかしいのである。
だから、出来る限りのことをすることで、今を諦めたくない。

農業が大きな時代の流れの中、ここ数年局面を迎えている。
時代の流れからすれば、局面が30年続こうとも
それはほんの些細な時間でしかないのであれば
私が過ごす営農の時間は
もしかすると局面の中で終わってしまうかもしれない。

ある日、自分の理想とする農業経営を進めることが
その一方で、お金儲けに走って見えることに抵抗を感じ
迷っていた時期がある。
そのようなタイミングで神は人との出会いをもたらす。
あるお寺の住職だった。
その胸の内を話したところ、まずは40歳までに
自分の限界がどこにあるのかを知る為に
何も考えずにやれるだけやってみなさい
そのようなことを話され、気持ちが楽になったことを
今も昨日のことのように思い出す。

何かに捉われることで、志が揺らぐのであれば
それから自らを解放してしまうことも必要なのだ。
大局を掴む為に、細部を丹念に洗い出すことは
とても重要なことなのだが
それ故に、細部に固執することは違うように想う。
ましてや、その人を寄せ付けないまでに
歪んでしまった顔になっては終いである。

細部を語り、それがあたかも全体であるかのように伝えるよりも
腹の底で語り、全体が伝わるような器が欲しい。
農業技術、経営手法、政策論議、その全てが必要。
だが、その一つだけに固執しては
固執していなくとも、固執しているように見えては…。

自分の顔が歪んでいないか、それだけが気になる。
人を見下していないか。戦う気持ちになっているか。
誰にも相手にされず
それでいて、誰からも愛される農家になりたい。

同じゴールに向かうのならば
怖い顔でテープを切るよりも
ボンヤリした顔で、切りたい。